2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧

小沢信男著作 107

名古屋豆本「東京百景」は、俳句としりとり唄と「いまむかし東京逍遥」に収録された 散文からなります。 小沢さんがおまけといっている「しりとり唄四篇」は、その後も日の目をみることがなし ではないでしょうか。 となると、この「名古屋豆本」では、この…

小沢信男著作 106

フリー百科事典「Wikipedia」の小沢信男さんについての項目は参考になりますが、 もうすこし詳しくともいいのになと思っています。だれかがやってくれることを期待 しつつですが、これの著書一覧では、「あほうどりの唄」と名古屋豆本の「東京百景」 の二冊…

小沢信男著作 105 東京百景

本日から「東京百景」(河出書房 1989年6月15日刊)を話題にします。 小沢信男さんの「東京百景」というタイトルは、もともと名古屋豆本の一冊としてでた 句集で使われました。まずは、こちらの「東京百景」(1985年8月15日刊)のほうを 紹介します。 名古屋…

小沢信男著作 104

「書生と車夫の東京」の最後となる第4章は、「ルパン・オブ・ジャパン」と題されて、 「大東京怪盗紳士録」と「近代日本殺人紳士淑女録・抄」からなります。 犯罪ものについては、すでにまとめて紹介をしていますが、これらの文章は、「定本 犯罪紳士録」に…

小沢信男著作 103

映画評のつづきです。「映画芸術」1982年12月号掲載でとりあげているのは、次の作品です。 「未完の対局」 「シークレット・レンズ」 「苦いひとくち」 ・「苦いひとくち」というのは、インド映画で、新橋のヤクルトホールを会場に 行われた「南アジア映画祭…

小沢信男著作 102

「書生と車夫の東京」の第三章は、映画評となります。前に紹介した「大東京24 時間散歩」にも収録されていましたが、この本でも映画評の部分だけは二段組みと なって、27ページにわたり映画評があります。小川徹さんが編集長をつとめていた 「映画芸術」に掲…

小沢信男著作 101

昨日の小沢さんの引用にありました「小野二郎と藤森司郎の末裔たちが、けたたましい ほどに談論風発する日が、この世のどこかに、かならずや来るだろう。私の楽観。」と いうくだりを眼にしますと、「we face the difficulties of today and tomorrow, I sti…

小沢信男著作 100

「電化以前の機関士は、何輌何十輌もの客車や貨車を引っぱって・・缶焚きの機関助手 と二人でD51を操り、出発から到着までがおのれの技量にかかっているのだから、誇り 高い人材に育って当然だろう。・・こういう人々と、私ごときが友達になれたのも、 新日…

小沢信男著作 99

昨日は「書生と車夫の東京」から離れて、「通り過ぎた人々」にまで話がとんで しまいました。「新日本文学」で出会うことになった藤森司郎さんと小野二郎さん は、ともに「通り過ぎた人々」で取り上げられている人ですが、かたや国鉄の機関 士、一方は父親が…

小沢信男著作 98

昨日に話題とした「鉄道と文学・その熱い関係」には、鉄道労働現場から生まれた 文学者と作品が列挙されるのですが、なかでも一番有名な作品は「機関士ナポレオンの 退職」でありましょう。この作品は、森繁久弥が主演して映画化されています。 1965年といい…

小沢信男著作 97

小沢信男さんの「書生と車夫の東京」(作品社刊)に収録の文章を話題にしており ますが、目次(初出一覧)をあらためて見ていただきますが、魅力的な文章が満載で あるように思います。( http://d.hatena.ne.jp/vzf12576/20110605 ) 当方が小沢さんらしい…

小沢信男著作 96

小沢信男さんの「書生と車夫の東京」から、目にとまったところをメモしているの ですが、書生ではなく、車夫の階層から文章を発表する人への期待に話はつながって いきます。 そうした階層の人が住むのは、高台ではなく低地であるか、次のようなところである…

小沢信男著作 95

小沢信男さんの文章に引用されている永井龍男さんの「石版東京図絵」は、どこかに あるように思うのですが、どちらにしてもすぐにでてくるところにはありません。 小沢さんは永井さんの作品から火災にあったくだりを引用して、かっての火災にあった ときの対…

小沢信男著作 94

「書生と車夫の東京」で「東京は職人の街で、彼らこそ主人公」とありますが、その 職人が主人公となる小説として、小沢さんは永井龍男さんの「石版東京図絵」をあげて います。作者の永井龍男さんは高等小学校を終えてから奉公にでていることもあり、この 作…

小沢信男著作 93

このだらだらと続く、小沢信男さんのためのメモは、小沢さんの誕生日までは 続けるぞと思って、いまほど確認をしてみましたら6月5日がお誕生日でありました。 迂闊なこと、とっくに過ぎていました。 それでは、昨日に引き続きです。 「学生が近代社会の担い…

小沢信男著作 92

「書生と車夫の東京」から続き部分です。 「ともあれ明治十年代は、自由民権と鹿鳴館の欧化の時代だ。四民平等の新社会 建設の理念と、立身出世の栄耀栄華の欲望が、一緒くたに肯定された時代の明るさ が、(「当世書生気質」)の文章にもみなぎっている。 …

小沢信男著作 91

「書生と車夫の東京」の巻頭におかれているのは、この文集のタイトルにもなって いる「書生と車夫の東京」というものです。書き出しは、つぎのようになります。 「 東京について語るのは、のっけからくたびれた気持ちになる。意気阻喪しかかる。 たとえばこ…

小沢信男著作 90

小沢信男さんが初めて書いた花田清輝さんについての文章は、74年12月号の「新日本 文学」に掲載されるのですが、花田さんは74年9月に亡くなったのですから、ほとんど 追悼の文章です。まだ日本大学芸術学部の学生であった小沢さんが「江古田文学」に 掲載し…

小沢信男著作 89

小沢信男さんの「書生と車夫の東京」ですが、この著作で「なにかが一段落」という ことを、あとがきに記しています。 「いまむかし東京逍遥」は83年刊行で、それから約2年半後に刊行となっています。 「いまむかし東京逍遥」と「書生と車夫の東京」に収録さ…

小沢信男著作 88

小沢信男さんの「書生と車夫の東京」の木下教子さんのところでとまっていました。 この本のあとがきは、父親との対話という形で書かれています。 父親とおぼしき人がつっこんで、それに著者が答えるという格好になっています。 「・『書生と車夫の東京』? …

小沢信男著作 87

「書生と車夫の東京」に収録の木下教子さんに関する二つの文章は、一年内くらいに 書かれたものと思われますが、遺稿集を寄せた追悼文と遺稿集についての書評となります。 小沢さんが文学学校のチューターとなり、人物も作品も良く知っているわけですから、 …

小沢信男著作 86 

木下教子さんが「日本文学学校研究科」に在籍していたときの、組会チューターをつと めていたのが小沢信男さんでありまして、そのあと一緒に「文学世紀」という同人誌を やっていたのだそうです。「書生と車夫の東京」には、木下さんの遺稿集に寄稿した 「微…

小沢信男著作 85

昨年の10月に山田稔さんの「マビヨン通りの店」を話題にしたとき「死者を立たし めよ」というタイトルで書き綴ったことがありました。 そのときに、山田稔さんの次の言葉を引用していました。 「『死者を立たすことにはげもう』と彼は書いている。そのことば…

小沢信男著作 84

本日は光接続のトラブルで、接続の再設定を行っておりました。 半年で二回目であります。前回はどこかに不具合があると思ってNTTサービスに 電話をしましたが、今回はまたかと思って接続ツールを使ってリカバリーを行い ました。なんとか開通したようですが…

小沢信男著作 83

小沢信男さんの「書生と車夫の東京」を話題にしています。 昨日は目次を引用しましたが、四つのパートにわかれていまして、「明治・大正 の人物と世相」「批評または書評」「映画評」「犯罪紳士録」の四つとなります。 これも小沢ワールドのオムニバスですが…

小沢信男著作 82

「書生と車夫の東京」の初出一覧1 リッチマン・プアマン ・書生と車夫の東京 「中央評論」1984年4月号 ・鉄道と文学・その熱い関係 「現代の眼」1982年10月号 ・大正成金物語「NHKドラマ・ストーリー・春の波涛」(NHK出版協会)1985年1月 ・いろは大王・荘…

小沢信男著作 81 書生と車夫の東京

小沢信男さんは最初の作品集「わが忘れなば」が、発足まもない晶文社から刊行された せいもあって、晶文社と関わりの深い作家のお一人と思いますが、晶文社からでた著作は 「東京の人へ送る恋文」、そして「いまむかし東京逍遥」の三冊のみです。 最初の作品…

小沢信男著作 80

「ちちははの記」は、若い頃には否定することが当然であると思い、また乗り越える ことができたと思われた親とか俗間信仰などのことが、よく考えて見ると自分の骨格の 一部を形成していて、否定すると自分までなくなってしまうということのようです。 ある時…

小沢信男著作 79

本日も昨日に引き続き「ちちははの記」からです。 昨日に引用した最後のところに「格好つけて言うなら、鎮魂の遍路行のような もの」とありました。「オヤノカタキ」と、どうして折り合いをつけたかというと 「鎮魂の遍路行」を重ねたからできたということで…

小沢信男著作 78

「私は、宗教団体のいくつかのルポルタージュを試みた。どれも短いものだが。 はじめ『思想の科学』に、日本山妙法寺について書けといわれて書いたことがある。 (1964年8月号『藤井日達とその弟子たち』) たぶんあのへんがきっかけだった。創価学会、大本…