小沢信男著作 89

 小沢信男さんの「書生と車夫の東京」ですが、この著作で「なにかが一段落」という
ことを、あとがきに記しています。
「いまむかし東京逍遥」は83年刊行で、それから約2年半後に刊行となっています。
「いまむかし東京逍遥」と「書生と車夫の東京」に収録されている作品は、書かれた時期
が重なるのですが、書かれた時期によって振り分けられるのではなく、より短いものを
中心にして「いまむかし」は編まれ、より重たいもので「書生と車夫」は編まれていま
す。
 なんとなく「いまむかし東京逍遥」の編集が行われている時には、「書生と車夫の東
京」の刊行がきまっていたようにも思われます。「いまむかし」にある佐多稲子さんに
ついての文章などは、「書生と車夫」の花田清輝長谷川四郎さんとともに並べたら、
よりおさまりがよろしいと思ったりしますし、「ちちははの記」などは、まさに「車夫と
書生」の二焦点の対立で、「書生と車夫」への予告編としか思えません。
 「書生と車夫」にある花田清輝さんについての74年の文章は、小沢さんが花田さんに
ついて書いた最初のものだそうです。
花田清輝氏でさえ死ぬのである。生者必滅会者定離。そう思いきめて、この原稿にむ
かって数日、一向に書けない。どころかまだ肝がつぶれているらしい。ご免蒙って吐息
まじりに書く。芸術運動家花田清輝氏について。
 芸術運動家という言葉は、過去に用例があるのかもしれないが、新日本文学で使われだ
したのは近年のことだ。言いだしっぺは花田清輝氏だった。」
 これが書きだしとなりますが、終わりのところには、「以上、花田氏について書く、私
の最初の文章である。花田氏が亡くなられたことの、これが私にとって、なによりの証拠
である。」とあります。
 花田清輝さんは、子分をつくらなかったといいます。小沢さんは、江古田文学に書いた
作品が花田さんの目にとまって、注目されるのですが、そのお二人の距離の取り方は、
このようであります。生きている間には、花田さんについての文章を発表しなかったと
いうのが、小沢流であります。