広告の楽しみ

 SNS民間放送も、新聞なども広告がなければ成り立たないようであり

ますが、マスクさんがやっているXなどはトランプ政権の広告塔になりそう

でありますので、当方はこれを遠ざけることにです。

 それにしてもたった4年ほど前かには、旧ツイッターはトランプさんの

アカウントを停止して、それに怒ったトランプさんは、新しいSNSを立ち上げ

たのですが、そのトランプさんの考えはまっとうでありますね。かっての

トランプさんのSNSはそこそこ繁盛していたとのことですが、大手のSNS

メディアが雪崩を打ってトランプ詣でしているのに、反トランプさんたちは、

自分たちのSNSを立ち上げなくてはです。(本日に地元の新聞に寄稿し

ていた藤原辰史さんも同じようなことを記していました。)

 やっぱり当方はオールドメディアのほうがなじむことであります。

オールドメディアの代表といえば新聞でありますが、本日はこれの出版広

告で楽しみましたですね。

 特に力が入っていたのは、中央公論新社のもので、これはよかったこと

です。当方の好みのものがたくさん刊行されるとわかりましたからね。

 こんなものが目にはいりました。

 田中小実昌さんの新刊は、ずいぶんとひさしぶりであります。これまで

刊行のものをまとめたものになるのですが、それにしてもすごいな、この

企画は。宣伝文句は次のようにあります。

「著者晩年の代表的シリーズとなった『哲学小説』を初集成」(全三巻)

とりあえず、「カント節」「モナドは窓がない」などが収録されるとのことで、

田中小実昌ファンで、哲学小説は読んでいないという人にはおすすめの

ものです。

 当方は、この手の小説をそこそこ買い揃えていて積読状態ですから、

買うことはないのですが、これは手にとってみたいことです。

 中公文庫も好調です。

 沼野さんのデビューエッセイ集ともいえるものが、タイトルをかえて文庫化と

なりました。これはほんとおすすめですよ。

vzf12576.hatenablog.com 金井美恵子さんの「目白雑録」も版元をかえて復刊とのことです。

全三巻とあるので、どんな編集になっているのか、気になることです。

金井さんの著作の文庫化は、このところ中公文庫がメインとなっているよう

であります。

 森崎和江さんのものもありで、これも気になること。

 ということで、今月の中央公論新社の新刊はすごいぞ。 

芥川賞受賞作を借りる

 図書館本の入れ替えで棚をみていましたら、芥川賞の受賞作の背表紙が

目に入りました。受賞作というと予約がいっぱいはいって、なかなか借りること

はできないのでありますが、これは昨年上半期の作品でありまして、最新のもの

ではありませんでした。

 本日に借りたのは、「バリ山行」であります。

 受賞してから半年以上も立ちますと、すこしは落ち着くようで、せっかくの機会

でありますので、読んでみることにいたしましょう。ちょうどこの本のとなりには、

朝比奈さんの本もならんでいて、この次は、これも借りてみるかな。

 こちらを先に借りたのは、当方が関西びいきでありまして、関西学院を好ま

しく思っているからですね。作者の松永さんは関西学院のOBで、西宮にお住ま

いというのがよくって、しかも山は六甲山系でありますので、なんとなく実用的に

も思えることです。(そんなことないか。)

 本日は気分を変えるために、「バリ山行」を読んでみることにです。まだ冒頭

のところしか読むことができていないのですが、この小説は、いまのところで

いきますと「会社員小説」ですね。同じ会社の人たちがサークルを作って、山へ

と行くのですが、バリ山行ではありますが、冬の北アルプスに行くわけではない

ので、山で亡くなったりする人はでてこないだろうな。

 会社員小説といえば、絲山秋子さんの作品を思い浮かべることですが、絲山

さんは、会社員をやめて専業作家となってしまいましたが、松永さんは、二足の

わらじで活動を続けてもらいたいものですね。

 まずは、この作品を読みすすめていかなくてはです。

 

編集工房ノア50周年(改めて)  

 先日に編集工房ノアさんからいただいた年賀状を掲げたのでありますが、

例年のいただく年賀状は庄野英二さんとか森本良成さんの絵になっていて、

やはり50周年にあたる今年は特別でありました。

 今年いただいた年賀状には、次のとおりあります。

「おかげさまで五十年目の春を迎えることができました。本年もどうぞよろしく

お願いします。皆様の平安をお祈り申しあげます。 2025年1月」

 編集工房ノアが50周年ということは、当方のノアとの付き合いも50年にな

るということで、こんなに長く付き合いができていることを喜ばなくてはです。

当方は、ノアさんの一番古い方の読者となっていまして、当方が愛読した足立

巻一さんの「ノアをつぶしてはあかん」というのを心にとめ、微力ながら応援を

することにです。

 このブログを続けているのも、編集工房ノアから本を出している地味な作家

さんの本を話題にしたいからでありますね。

 このブログをはじめてまもなくに、「好きな出版社」というタイトルで、以下の

ように記しておりました。

「 最近で好きな版元といえば、やはり編集工房ノアでありましょうか。

ここは、家族のみでやっていると聞きますが、川崎彰彦さんのつながりで

やはり30年ほどのひいきにしています。売れない作家 川崎さんは、

『ノアはぼくのホームグランドだから』といっていますが、在庫をたくさんかかえて

いるだろうと思いますが、しぶとく出版をつづける社主の姿勢にはあたまがさがり

ます。
 ここからは不定期に「海鳴り」という冊子がでていますが、これには山田稔さん

の作品が掲載されるなどファンには見逃せないものです。これは定期購読という

制度がないので、どこかのブログで入手したという記事をみましたら、ノアに

はがきを書いてご恵贈くださいとお願いをするのでした。

 先年に、小生がはがきをだしましたところ、なんとうっかりして自分の住所、

氏名を書き落としたのでした。なのに、社主 涸沢さんは保存している読書

はがきの過去分をさがして、それで人物を特定して「海鳴り」を送ってくれたの

です。たいへん恐縮することでしたが、こうしたことをしてくれるのが 

編集工房ノアなのです。ここは、小沢書店の二の舞にはなってほしくないので

ありました。」(2007年1月19日の記事より)

 当方のこれまでの記事には、編集工房ノアを話題にしているものが数多く

ありまして、最近物忘れが激しくなっている当方のメモとなっています。

vzf12576.hatenablog.com ちなみに編集工房ノア創業50周年記念出版は「以倉紘平全詩集」との

ことです。

編集工房ノア創業50周年記念出版 以倉紘平全詩集

積読十六年かな

 なんとか中村稔さんの「私の平成史」の最後のページにたどり着きました。

 平成というのは2011年の地震原発事故と、日本の国力低下で記憶され

ることになるのでありましょうか。

 中村稔さんは1927年生れとのことでありますので、小沢信男さんと同年の

お生まれであります。「平成史」を書かれていたのは90代に入ってであります

ので、これはすごいことでありまして、そこに書かれていることに、ちょっと首を

かしげたりすることもあるのですが、長命の方には勝てないことであります。

 当方は、中村さんの「私の昭和史」の一冊目を購入し、読んで面白かった

ことから、それに引き続きで「私の昭和史 戦後篇 上下」を買っておりまし

た。買ったときにはすぐに読むぞと思っていたのですが、それからずいぶんと

時間が経ってしまいました。

 せっかくの機会であるので、これを読んでみましょうと思って取り出してきて、

奥付を見ましたら、2008年10月とありましたので、16年の長きに渡り積読

なっていたことになります。

 これを書いていた時の中村さんは70代後半から80歳ころでありまして、

現在の当方の年齢にだいぶん近いことであります。書かれている時代は戦後

まもなくからでありますので、当方はやっとこさ生れたくらいの頃の話です。

 上下巻合わせて31章でありますので、1日一章読むことが出来たら一月で

あがるのですが、そうはならんでしょうね。

 本日に読んだところで、印象的なところを引用してみます。

「一介の大学生、高校生が集まって、社会的発言の場として商業誌を編集、

刊行しようというのは現代はもちろん、戦後の混乱期といえども、常軌を逸して

いる。すべてはいいだの野望と楽観主義からはじまったのだが、後に『世代』に

みるとおり、いいだはすでに社会的発言の場を求めるだけの思想ないし思想の

萌芽をかためていたし、中村光夫さんもそういういいだを認めていたからこそ、

『世代』の発刊に手を貸してくださったのであろう。遠藤、いいだ、中野らは当時

の一高で評判の秀才たちだったから、竹山教授もお骨折り下さったのであろう。

それにしても、こうした彼らの情熱が『世代』の創刊に至るのだから、これも

敗戦後の特殊な現象にちがいない。」

 これは昭和21年のことでありまして、戦後のひどい食糧難のなかで、こうした

野望を実現しようとしたいいだももさんについて、後年になってから中村さんは

「忘れられぬ人々」で取り上げているのですが、これも読んでみたいものです。

 

興味深く読むことに

 相変わらずで中村稔さんの「私の平成史」を読むことにです。

 大変興味深い話が多くて、当方はそうだよなと強く同意しながら、読んで

いるのですが、昔の日本のエリートとして育てられた人からすると、平成と

いう時代は、その昔であればエリートといわれたであろう人たちが、かなり

無残な状態になっているといわれています。

 この本の最初に書かれていた「令和」の墨書における「令」の字のハネに

に象徴的にわかるようにで、誰も不思議に思わなくなっているのですね。

 中村さんは、自分の専門である法律分野のエリートには、容赦がなしで

ありまして、あちこちにそのことは書かれています。

「本件は私が敗訴した事件だが、このような理由不備、論理性を欠いた判決

がわが国最高裁の判決であることを思うと、裁判官の資質、学殖に疑問を

抱かざるを得ない。・・・

 ついでのことに、法律論と関係のないことだが、かねて気にかけているこ

とを付記しておきたい。それは、・・・『ダイエット』という言葉である。

 最高裁判事およびその他の関係者がダイエットという言葉を美容法を意

味する言葉と誤解していることは明らかである。私はこのような言葉の間違

いに無神経な裁判官はおよそ社会常識を書いているのではないか、と疑っ

ている。」

「じつはこの事件の知財高裁の判決、最高裁の判決を引用したのは、その

理由を精読していただくためではない。私が耳にしているところでは、この

事件を判決をした知財高裁の合議体の三名の裁判官は誰も『自由学園

の存在を知らなかったといわれるからなのである。知財高裁ないし東京

高裁の裁判官といえば、裁判官中のエリートが任命される役職である。本件

最高裁の判決によれば、彼ら知財高裁の裁判官三名は『知識人』とは

いえないことになる。裁判官が知識人であるかどうかは問わないとしても、

自由学園の存在を知る程度のことは一般教養、社会常識程度の問題である。

このような一般教養、社会常識を欠如した裁判官が知財高裁の裁判をして

いるという事実は、私にとって脅威というより、むしろ恐怖であるというのが

率直な感想である。」

 この他にもあるのですが、引用ばっかしになるので、このくらいでです。

裁判官について、こういう評価でありますので、政治家などについては、さら

に辛口でありますので、このくらいにしておきます。

 昨日に大阪の以倉紘平さんの名前をだしましたが、それは三好達治賞に

関してでありました。これについては、次のように続いていきます。

「賞金をふくめ、雑経費は以倉さんが桃谷容子基金から支出しているようで

あった。桃谷さんんは夭折なさったが、関西では詩人としてその豊かな才能

を認められていた方だそうである。著名な化粧品会社の創業者の息女とし

て生れ、育ったので、相当の資産をお持ちであったが、相続人がおいでになら

なかったので、遺産は桃谷容子基金として現代詩の振興のために使用する

ように、という遺言にしたがい、以倉さんがその運用を一任されているように

承知している。・・ずいぶん奇特な女性である。」

 桃谷容子さんという詩人の名前が記憶に残っているのは、編集工房ノア

目録に「全詩集」がでているからですした。

《桃谷容子略歴》

1947年11月15日大阪市生 帝塚山学院大学卒 同大学仏文学研究生を経て

詩誌「アリゼ」同人 73年より75年までポーランド在住 2002年9月19日腹膜

ガンで死去。詩集『黄金の秋』(詩学社88年・第3回福田正夫賞)

カラマーゾフの樹』(編集工房ノア94年・第2回神戸ナビール文学賞

遺稿詩集『野火は神に向って燃える』(同03年9月19日)。

 そういえば、元旦に届いた編集工房ノアの年賀状は、ノアの創業50周年記念

出版として「以倉紘平全詩集」の刊行を告知するものでした。(それにしても、

編集工房ノア、よく50年持ちこたえたものです。)

編集工房ノア 50周年記念出版 以倉紘平全詩集

本日も「平成史」から

 本日も中村稔さんの「私の平成史」から話題をいただくことにです。

 昨日に唐突に中村さんの「文学館感傷紀行」のくだりを引用したのであり

ますが、1998年から2011年まで財団法人日本近代文学館の理事長を勤め、

財団の健全運営に尽くされていたのでした。そんなことから、全国の文学館が

どのようになっているかで私的に視察をしたというのが、「文学館感傷紀行」に

まとまったとなります。

 文学館のほとんどは、自治体が設立してスポンサーの役割を担っています

が、「日本近代文学館」は、そのような固定したスポンサーはないので、中村

さんは財源確保のために寄付のお願いやら、独自事業などをすることに尽力

とあります。

「全国文学館協議会の席上などで財政が話題になると、紅野さんは、私は

財政には関係しませんから、といって、同行の職員に答えさせるのがつねで

あった。私自身は理事長に就任して以来、日夜財政のことばかり考えていた

から、紅野さんのような立場を貫けることが羨望にたえなかった。」

 自らは無報酬で活動をしているのに、その上あちこちの文学館からアドバ

イスを求められるのでありますから、これはもう普通ではできないことです。

 そんななかで「ほとほと手を焼いた」と書かれた事例がでています。

「私は財団法人高見順文学振興会の理事長を辞任した。これは高見夫人が

死去した結果の後始末がついたためであった。高見夫人は高見順さんの最

晩年、高見さんが愛人との間にもうけた子を養女とし、戸籍上養子縁組して

いた。高見さんの気持ちを少しでも安らかにさせてあげたいという動機だった。

娘さんを認知しておくだけでよかったはずだが、夫人も娘さんと養子縁組して

いたために、娘さんは夫人の遺産に関して権利を持つことになった。娘さんは

相続人として当然の法律上の権利を主張した。夫人は遺産の処分について

その意向をこまごまと身近にいた人々に漏らしていたようだが、あまりにこま

ごました事柄だったので、詳細を記した遺言書を作成なさるのが面倒だった

のであろう。そのため、遺産の配分は予想外に厄介なことになり、振興会の

理事長として、また、弁護士として、私はほとほと手を焼いた。それらの

始末がついた段階で、夫人が亡くなった以上、これ以上、振興会の面倒を

みる必要はあるまいと考えたのであった。」

 中村さんの本では、この養女になった方の名前がでているのですが、

引用のときに娘さんとしました。

 高見順振興会といえば、一番の事業は高見順賞を続けていたことですが、

これは2020年50回で終了したとありますが、夫人はこれをすこしでも長く

に続くことができるように考えていたが、そのようにはならなかったというこ

とでありましょうか。(とはいっても、その後20年近くも継続したのでありま

すが。

 このあとには、これとまったく違った遺産の使われ方が紹介されています。

それは大阪が舞台となるのですが、次のように書き出されます。

「平成18(2006)年3月、私は三好達治賞の選考委員を委嘱された。それ

まで私は面識がなかったが、以倉紘平さんが選考委員の選任、委嘱をふく

め、すべてをとりしきっていたようである。」

 ここで大阪の重鎮 以倉さんが登場するとはです。

 

本日は「平成史」を読む

 本日は図書館から借りている中村稔さんの「私の平成史」を読み継ぐこと

になりです。

 朝起きて、まだ暗いなか朝刊をとってきて布団のなかで読書欄に目を通し

て、そのあと「私の平成史」を読もうと思ったのですが、今朝は気温が下がって、

火の気のない室内で本を読むのは、ちと厳しいので布団にもぐって二度寝

なりました。(今朝の最低気温は、朝7時16分にマイナス12.6度。雪がないの

がありがたく、寒いのはガマンです。)

 結局、「私の平成史」を読むことができるようになったのは、午後のなってか

らで、この時間には気温があがってわずかにマイナスで、室内にいてもストーブ

を消して過ごすことができました。

 中村稔さんの「平成史」は、社会の動き、弁護士としての仕事、文学者として

の役割と詩作、そして家族のことなどが書かれています。

 世界情勢についてはサーッと読んで、弁護士としてのことについては、そんな

裁判を担当していたのかとで、古くからの友人のことについては、そういう最後

であったのかと思ったりです。

「この年(1995)11月から、後に『文学館感傷旅行』と題して新潮社から刊行し

た文学館を訪れる旅を始めた。誰から頼まれたわけでもない。費用は自弁で、

多くは亡妻と同行した。全国文学館協議会加盟の五十三館に加えて、宮沢賢治

記念館と越谷市立図書館野口富士男文庫の二個所を訪れてその感想を記した

ものである。・・・

 それぞれの文学館から私が教えられることは多かったが、忘れられないのは

お会いした人々であった。私が敬愛してやまない日高普の軍隊時代の上官で

あった沢田誠一さんが北海道文学館などの推進者のお一人であったことから、

同館で沢田さんに初めてお目にかかったことが一つの事件であった。」

 このくだりを目にしてちょっと驚いたのは沢田誠一さんが、日高普さんの上官

であったということですね。それが逆であれば、不思議でもなんでもないのです

が。

 沢田誠一さんは、現在は札幌市となっている豊平は平岸のお生まれで、りんご

農家のかたわら文学に取り組まれ、小説などを発表して著名でありました。

その縁で、1995年には財団法人北海道文学館の理事長をなさっていました。

豊平の平岸というのは、当方が生まれたところの隣の集落でありまして、なんと

なく身近に感じる名前であります。

 沢田誠一さんのウィキを見ましたら、商業学校を卒業後に陸軍高射砲学校を

卒業したとありますし、終戦時には高射砲隊の中隊長とありますので、それなり

の幹部であったのですね。

 日高さんのほうは帝国大学を卒業していますが、その信条から幹部候補には

ならず兵のままであったのでしょうね。沢田さんが良い上官であったことが、

日高さんから中村さんに伝わって、この時に日高さんのことも話題になったので

ありましょう。

 中村稔さんには、ほんといろいろな切り口があることです。