なんとか最後まで

 黒川創さんの「鶴見俊輔伝」の最後までなんとかたどりつきました。

 鶴見さんの本は、若い頃からずいぶんと買っているのですが、さっぱりと

読むことができていなくて、それこそ鶴見さんの本だけで未読の山が一つ

できそうであります。

 単行本の時に買って、読むことができないうちに文庫化されて、それを

読まなくてはと思っていて数年であります。雑文集は、それなりに読むこと

ができていたりするのですが、本格的なものはまるでだめです。今回の

黒川さんの「鶴見伝」に力を得て、未読のものをすこしでも開いてみること

にいたします。

 今回の「鶴見俊輔伝」を読んでみて、はじめて知ったことで一番驚いた

のは、鶴見さんの弟さんの存在でありました。

 黒川さんが「帰りの夜道などでたまたま並んで歩いているとき、弟が悪

くてね、片足を切らなくちゃならないと、ふともらすのを聞いた」ことで、

「それによって初めて、この人に弟がいることも知ったのではないか。」と

書いています。

 他の家族とくらべると、ほとんど弟さんについては書き残していないは

ずで、それについても黒川さんの説明がありです。

サラリーマン働きがいの研究―「これから」をどう生き抜くか (1982年)

 黒川さんの本によりますと、上に掲げたのは鶴見さんの弟 直輔さんの

著作とのことです。なるほど、いろんな家族がいることであります。

 とりあえず未読の山から抜いてきた鶴見さんの本は「日米交換船」であ

りまして、鶴見伝を脇におきながらこれを読んでみることにします。

日米交換船

 

密漁の海で

 先月に話題となっている「サカナとヤクザ」を読んでいましたら、この中で

正統派ルポとして紹介されていたのが北海道新聞記者が書いた「密漁の

海で」であります。

vzf12576.hatenablog.com 先週くらいの新聞に、近所の河口付近でウェットスーツを着て海に入って

いた男性が溺れたと救助要請があったが、助からなかったとありました。

冬の夜(20時過ぎ)に海に入っている人は何をやっているのかでありますが、

これはたぶん人目を避けて、何かをしていたのでありましょう。

 海に面した町の話題としては法を犯して漁をする(これが密漁ですね)の

は、けっして珍しいことではありません。

 これが国境のまち 根室では、もっともっとおおがかりでありまして、今は

どうかわかりませんが、ロシアも含めての違法創業がなくては水産加工とか

観光業がなりたたない状況にあったということが、「密漁の海で」には描かれ

ています。

〈新訂増補版〉密漁の海で

 この「密漁の海で」は、前半が水産業における日露関係で、後半はソ連

崩壊からの領土交渉にあてられています。

 皮肉なことでありますが、北方領土をめぐって日露が一番良い関係に

あったのは、鈴木宗男さんが大きな顔をして外務省を引き回ししていた時

のようであります。鈴木宗男さんは決して好きな人ではありませんが。

 モスクワにも駐在し、長くロシアとの交渉をおっかけている著者からすれ

ば、外務省から鈴木宗男さんの影響力を排除する過程のなかで、必要な人

材までもパージしていたということです。その結果として対ロシアの情報収集

能力が低下して、現在も後遺症に悩まされているとあります。

 この本のなかで、次の三点をあげたと記しています。

 「 1 対ロ制作をめぐる二島先行派と四島一括派の対立、

  2 外務省内の鈴木派と反鈴木派の対立、

  3 ロシアとの関係改善を望まない公安当局の警戒」

 このうえで、それでもなぜ鈴木、佐藤の両氏が逮捕までされなくてはいけ

なかったかは、よくわからないとのことです。

  結局のところ二人は、見せしめであったのでしょうか。

「政治家も外交官も、対ロ関係では何もせず、『四島を返せ』と唱えていれば

いいからだ。対ロ関係改善、領土交渉の進展にだれも真剣に取り組もうと思わ

ないし、政治家も外交官も自己保身に走らざるを得ない。領土交渉が停滞して

いる最も大きな原因は、ここにあるのではないか。」 

 とここまでが、2011年時点での著者の見解であります。

 それからずいぶんと時間がたって、ここのところ自分の代で、この問題に決着

をつけると意気込んでいる人がいて、本日もトップ会談があるようですが、さて

ウルトラCは見られるかです。   

 かの国は、ずっと前からトップは変わらずで、ほぼ独裁になっていますから、トッ

プさえクビを縦にふれば、どっと前進しそうでありますが、その可能性は極めて

低いことです。

 外務省を追われた佐藤優さんは、つぶされることもなく独自の著作家として

存在感を示していますが、「一冊の本」の2019年1月号に掲載の「混沌とした

時代のはじまり」で、「『二島先行』という選択肢は存在しない」という文章を寄せ

ています。このなかで「二島先行」に関してはメディアの認識が間違っていると

言い切っていますので、この佐藤さんの文章で言われていることを頭において、

当面の動きを見てみることにいたしましょう。

センターの国語

 昨日まで大学入試センター試験でありましたが、その問題が新聞に掲載

されていました。ほとんど試験問題はちんぷんかんぷんであるのですが、現代

国語だけは、どのような文章が問題として採用されているのかとのぞいて見る

ことになります。

 過去には野呂邦暢さんとか加賀乙彦さんの文章が採用されて、それを話題

としたことがあったのですが、さて今年はですが小説は上林暁さんの「花の精」

という昭和15年に発表された作品です。これまたえらい地味な作品でありまし

て、まったくどういう基準で選ばれるのでありましょう。試験問題になっているの

は、けっこう長文でありまして、来年以降は過去問題集に収録されることになる

のですが、上林さんの「花の精」は、どうすれば読むことができるのかな。

当方の場合は、上林全集がありますので、それをチェックして収録されている

第三巻を抜いてきました。20ページほどの作品ですから、本日はこれを読むこ

とにいたしましょう。

上林暁全集〈第3巻〉小説(3)

 現代文のもうひとつは、沼野充義さんの「翻訳をめぐる7つの非実践的な

断章」という文章からでありました。この文章はなかなかおもしろいもので、

問題を解くことはしないこともあって楽しく読むことができました。

 たまたま見ていたら、沼野さんがツイッターでセンター国語問題に言及して

いました。どこの大学も、入試問題がオープンになる前に、今年の試験で使わ

せていただきますというあいさつはないはずですから、このような話になるの

でありますね。 

  この試験問題では、沼野さんの最初の著作である「屋根の上のバイリンガル

からの引用がはいるのですが、当方は、これをUブックス版で確保しておりました。

屋根の上のバイリンガル―エッセイの小径 (白水Uブックス)

 先日のこちらの放送でタモリ倶楽部を見ていましたら、大学入試問題を解くと

いう特集でありまして、花園大学で入試問題に採用された武田砂鉄さんをゲスト

に、タモリと武田さんともうひとりが試験問題を解いて、それを大学の先生が

チェックするというものでありました。

 これにならって、沼野さんも今回の問題を解いてみて、その結果を報告しても

らいたいものです。

生涯のコンビ

 後年に松本昌次さんが創業した影書房代表取締役となる庄幸司郎さん  

のことを、小沢信男さんは「通り過ぎた人々」で取り上げて、庄さんは松本さん

の生涯のコンビとよんでいます。

 この不思議な二人の関係について小沢さんの文章で見てみることにします。

庄幸司郎は、1931年に、旧満州の大連で生まれた。辛酸をなめて京都へ

引き揚げる。1950年に上京し、働きながら都立一橋高校夜間部へ通う。

そこで、新任の教師にであった。

 若い時間講師は英語の教室で宮沢賢治魯迅サルトルを語り、反戦平和

を熱烈に語った。朝鮮戦争レッドパージの嵐の時期で、てきめんに半年でクビ

になってしまった。

 この失業教師と、やがて庄幸司郎は共同生活をはじめた。朝から庄は労働に

でて、失業者は日中ひたすら本を読む。その本の中身を、晩飯をご馳走になり

ながら庄に語ってきかせる。そういう日課だった。」

 これが生涯のコンビの出会いとなります。夜間部の生徒であった庄さんは、

パージにあって教室を追われた若き教師の生活の面倒をみることになるの

ですが、この若き教師が松本昌次さんでありました。

「この一宿一飯の積み重ねから、耳学問の達人の庄幸司郎が育ち、万巻の

書を咀嚼し伝達する日々の荒行によって、のちの未来社編集長で、現・影書房

社主の松本昌次が育った。」

 こんなことってあるのですね。夜間高校生であった頃に大工修行をしていた

庄さんは、建築会社を起こし、それによって芸術運動家となっていくことになり

ます。

 その昔の「新日本文学」誌には庄建設株式会社の広告が掲載されていたの

ですが、それは「新日本文学会」の建物を補修などを請け負って、その未払い

の代金を相殺するための広告であったとのことです。たぶん庄建設は吹けば

飛ぶような会社であったと思うのですが、そういう会社のオーナーが文学運

動を側面から支えていたことになります。

 庄さんの遺著を紹介した松本昌次さんの文章から引用です。

庄幸司郎を喪ってみて、いかにわたしが、彼と協同した道をこれまで歩いて

きたかを、あらためて痛感している。本業の建築の仕事をはじめ、出版活動、

演劇運動、平和運動のどれもに、彼とともにかかわってきた半世紀であった。

特に彼の死によって三百三十三号で休刊した月刊誌『告知板』、本多勝一

とともに始め百六十三号休刊した月刊誌『記録』、いまは亡き井上光晴氏編

集の季刊・第三次『辺境』全十冊は、すべて彼の経済的負担によるものであり、

この本に収められた文章のほとんどは、これらの雑誌に書かれたものであっ

た。」

通り過ぎた人々

戦後出版と編集者

いつも金の心配を

 大きくても小さくても会社をやっていれば、資金繰りに苦労することで

あります。特に細の出版社なんて、ひどく大変な思いをして本を刊行して

いるのに、いつも懐具合は火の車でありましたでしょう。出版社に金を貸し

てくれるような金融機関は高利貸しといわれるところ以外にはないのが

現実でありました。

 自分の手持ちの資金ではじめた場合には、かなり用意していても、じき

に底をついたようであります。本日に読んでいた「鶴見俊輔伝」には、鶴見

さんが「思想の科学」の刊行を継続するために、「もがくように苦しんでい

た」とあります。

 同人雑誌のようなものでスタートしてから、発行元を「講談社」や「中央

公論社」などにお願いをしてやっていくのですが、「講談社」はあまりの赤字

に、「中央公論社」は「風流夢譚事件」に巻き込まれる形で、たもとを分かつ

ことになり、それからまる一年ほど空いて、有限会社思想の科学社から、

第五次「思想の科学」が復刊することになります。

 そこにあったのは、鶴見さんが兄事する都留重人さんのアドバイスであり

ました。雑誌は「ガリ版でも出す」という鶴見さんに都留さんは、次のように

いったとあります。

「それは、いけない。雑誌というものは、財産なのだから。カネは手配してあ

る。そこに行って、資金を借りて、ちゃんとした雑誌を出すようにしなさい。」

 ということで都留さんが手配してくれていたのは、井村寿二(金沢の百貨

店・大和の経営者、のち勁草書房社長)さんでありました。井村さんからは、

新会社設立の資金として関係者10人の連名で百万円を借り受けたとあり

ます。(1962年の百万円であります。)

 この百万円がなければ、第五次「思想の科学」のスタートは、まるで違った

ものになったことでしょう。

 このあとに井村さんは勁草書房のスポンサーとなっていくのでありますが、

これはなかなかない話であります。

鶴見俊輔伝

 それじゃ昨日に話題とした松本昌次さんの「影書房」は、どうなっていたの

かなと思いました。松本さんも自著のなかで、これについて書いているのであ

りますが、小沢信男さんの「通り過ぎた人々」にも、これが書かれていました。

「1983年、松本昌次が影書房を設立。これに助勢し、91年よるは代表取締役

になる。ついに生涯のコンビだった。」

 小沢さんに松本さんの生涯のコンビと呼ばれたのは庄幸司郎という方であ

りました。

通り過ぎた人々

松本さんといえば

 昨日に話題にした編集者 松本昌次さんについてであります。

未来社を経てら影書房を創業した松本さんは、終始戦後派の編集者

でありました。当方は、松本さんが担当した戦後文学作家のものを

何冊か手にしただけでありますが、いまだに読むことができていない

というのに、強く印象に残っているものに富士正晴さんの「竹内勝太

郎の形成」がありです。

 雑誌に連載されている富士正晴さんの文章に注目した松本さん

がこれを単行本とするまでに8年もかかったということを、松本さんが

書き記しています。

「わたしは三年どころか、七、八年にわたって、この『大赤字を出すかも

知れん』ところの『竹内勝太郎の形成』が気にかかりどおしだった。

『竹内勝太郎の形成』がはじめて活字になったのは、『文学』1969年

1月号で、以後、一回五十枚のワリで連載されたが、さすがの岩波書店

も余りに長すぎたためか、きっかり一年間で連載打切り。翌年1月から、

富士さんの所属する同人誌『VIKING』に、『月百枚を越えること』しばし

ばの再連載で、これまたきっかり一年間で書きあげられたのがこの本で

ある。・・わたしが本にしたいと思ったのは『文学』の連載がはじまった

時からだから、今年(1977年)の1月にようやく単行本になった時点から

逆算すると、実に八年目にして、一本にまとまったことになる。

富士さんよ、本当にお待たせして申しわけありませんでした、というほか

ない。」

 岩波でも単行本にするのは難しかったものを一本にまとめたのが

松本さんがいた未来社でありました。このようなものをだしても、なんと

か持ちこたえたのが未来社のえらいところです。

 引き続き松本さんの文章から引用です。

「『時利あらず』といえば、『竹内勝太郎の形成』のみならず、富士さんは

たえず『時利あらず』を生きつづけているではないか。未来社もまた、

同じく『時利あらず』を生きているにしても、この(富士さんの)メッセージ

にさえも覚悟が決まらないとしたら、編集などやめてしまえばいいと、わた

しは思った。印刷所に入れてからでも一年半かかり、A5版8ポ二段組

六百ページで完成した時、やはりこれは十年がかりの本であるなあとい

う、ずしりとした重味を確かな手ごたえとして感じた。」

 当方は、この時の富士正晴さんの年齢をすでにこえてしまっています。

富士さんと松本さんが十年もかかって作った本を、そろそろ読まなくて

は、残りの時間が少なくなることです。

vzf12576.hatenablog.com

戦後が終われば

 野坂昭如さんの新潮文庫「絶筆」の帯には、「この国に、戦前がひたひた

と迫っていることは確かだろう」という言葉が掲載されていました。この本の

どこかに、このままの言葉が登場するのかと思って、大急ぎでページをめくっ

てみたのですが、すぐには見つからずでありました。

 あちこちに同様の記述はありますが、ここでは2013年12月「特定秘密保

護法」が成立したときの日録からの引用です。

「与党の暴挙暴走、野党は何をしていたのか、メディアが今さら騒いでも遅い。

これほどの悪法、メディアも野党も止められなかった。

 そしてこんなお上を選んだのは国民である。病いも政治も同じ、危ないと

自覚した時はすでに手遅れ。明かせない秘密だらけの国で言論抑圧があたり

前となり、生きにくいと思うのち、お国のために死ぬこそ、国民として崇高な行

為であるという、かってまかり通った教えがよみがえる。

 世の中は再び戦前に戻ろうとしている。」

 「少しでも戦争を知る人間は戦争について語り伝える義務を持つ」というの

が野坂さんの基本的なスタンスでありました。政治的な立場を超えて、野坂さ

んから上の世代の人たちにとっては、戦争というのは避けなくてはいけないと

いう暗黙の了解があったように思います。

 本日の新聞に亡くなったことが報じられていた編集者 松本昌次さんは

戦後に未来社に就職し、その後影書房を創業された方でありました。著書に

は、以下のようなものがあります。

戦後文学と編集者

戦後出版と編集者

 2001年9月に刊行となった「戦後出版と編集者」のまえがきで次のように

書いていました。

「それにしても戦後精神を担った著者・出版人の相次ぐ死に連動するかのよう

な、ここ数年における日本社会の右傾化・反動化の動向には目を掩うものが

ある。・・・戦後日本の民主主義にとって決定的に重要な核心であったはずの

国民主権の原則を国民みずからがやすやすと葬り去ろうとしている。わたした

ちは、その現場に立ち会っているのだ。出版人の中からも、こうした現実に抗っ

て声をあげようとする者はほとんど現れてこない。わたしの心は限りなく沈鬱で

ある。」

 松本さんが「国民主権の原則を葬り去ろう」としていると記しているのは、

「日の丸・君が代」の法制化でありました。松本さんは、これを日本の民主主義

が死ぬ日といっているのですが、その時は、なんとまあおおげさなと思ったこと

でありますが、それから十五年ほどもたって、国民集権が危機に瀕している、

民主主義が形骸化していると言われているのですが、それでも一強体制が

続くようでありますので、これは焼くなり煮るなり好きにしてというようなもの

でありまする。