小沢信男著作 90

 小沢信男さんが初めて書いた花田清輝さんについての文章は、74年12月号の「新日本
文学」に掲載されるのですが、花田さんは74年9月に亡くなったのですから、ほとんど
追悼の文章です。まだ日本大学芸術学部の学生であった小沢さんが「江古田文学」に
掲載した小品を文藝時評で取り上げのが花田さんでありますから、小沢さんにとっては
大恩人の一人です。
 「書生と車夫の東京」に掲載の「芸術運動家 花田清輝」からの引用です。
「1953年4月号の『新日本文学』に、私は「喪骨記』という短編小説を書いた。これが
会にかかわった最初である。当時、私は日大芸術学部の学生だった。
 この年のたぶん正月に、新日本文学編集部 武井昭夫氏から手紙をもらった。新聞の
切抜きが同封されていて、それが花田清輝氏の文芸時評で、『江古田文学』に私が書いた
小品がとりあげられていた。武井氏の手紙は、花田編集長が若者たちの仕事に注目し激励
してくれるのは互いにうれしい、いちどあそびにこい、という文面だった。そこで出かけ
た。西大久保の会館に、輝ける元全学連委員長をこわごわたずねたのだ。とっつきは
優しい人であった。小説を書いてみろといわれ、書いたら、載った、という順序である。
・・・『江古田文学』の小品は、私がはじめて書いた二十枚ほどの散文で、仲間に小説と
認められず随筆として載ったのだ。たくさんの同人誌の中の埋め草風の小品に目をとめ、
どこの馬の骨ともしれぬ若僧に小説を書かしてみろと、武井さんい示唆したのであろう
ことがおどろきだ。私は近年編集委員になり、事務局長になり、編集長もやったが、
なかなかこういう具合にはいかなかった。」
 53年のことですから、そのとき小沢さんは26歳くらいのです。
「その花田氏にいつどこで、お初におめにかかったのか記憶がない。入会して二、三年後
に、上京した富士正晴氏のお供をして、小石川白山のお家に伺ったのが、至近距離で
お会いする最初だったという気がする。のにち記録芸術之会ができて、私が一時その専従
になったころから、やっと所用でお話をする機会ができた。亡くなられるまでずっと
そんな程度だった。」