小沢信男著作 85

 昨年の10月に山田稔さんの「マビヨン通りの店」を話題にしたとき「死者を立たし
めよ」というタイトルで書き綴ったことがありました。
 そのときに、山田稔さんの次の言葉を引用していました。 
「『死者を立たすことにはげもう』と彼は書いている。そのことばのむこうに、
ひとりこつこつと、忘れられた知友の墓碑銘をきざむ富士正晴の姿が見えてくる。」
 富士正晴さんがやってらした「バイキング」には「東京ブランチ(支部)」という
のがあって、小沢さんは1954年12月から59年4月まで東京会員として活動をしていま
した。( 「サンパン」第10号の「小沢信男一代記」その8参照 )
 当方は古くから小沢信男さんと山田稔さんをひいきにしているのですが、小沢さんも
「バイキング」にゆかりの人であると知ったのは、ずいぶんと後になってからのこと
でありました。小生ひいきのお二人に共通しているのは、ともに富士正晴に影響を
受けているということでしょうか。
 木下教子さんという無名の人の作品を読み、それについての評を書き「死者を立たす
ことにはげむ」というのは、なによりも富士正晴さんの流儀を受け継いだものあります。
「 文章も、構成にも、余計な修飾や衒いがない。素朴な作風で、いわゆる”小説作法”
からみれば、稚拙の一語で片づきそうだ。
 だが読むほどに、作者の一貫する姿勢に、いやでも気がつく。書くことによって自分と
その周囲をしっかり捉え直そうという希求。その無愛想なほどの切実さ。そうして彼女
は、生い立ち、家族、職場、世間と一作ごとに視野をのばしてゆく。質実な文章は、的確
さを増して時にユーモアともなる。一見稚拙な作風は、じつは一種の暢達ではないのか、
と思えてくるのだ。
 この四作、および評論二篇を、彼女は二十四歳から三十歳にかけて書いた。武井昭夫
懇切な序論に言うように『表現者として 言い換えれば認識者として、一歩一歩着実に
前進している』のだ。
 ものを書くということは、基本的にこういうことだろう。それは生き方につながる。
そこでその足跡を、文章を通して目撃することには、ドラマチックな感動がある。
 日本文学学校という仕事の、役割も、張合いも、このへんにあるにちがいない。」
 小説としては稚拙であっても、感動する作品があるということですね。作者のことに
ついてすこし知らなくては感動できないというところに、作品としての弱さがあるのか
もしれませんが、書かなくてはいられないという切実さが、弱さをカバーするので
ありましょう。