小沢信男著作 86 

 木下教子さんが「日本文学学校研究科」に在籍していたときの、組会チューターをつと
めていたのが小沢信男さんでありまして、そのあと一緒に「文学世紀」という同人誌を
やっていたのだそうです。「書生と車夫の東京」には、木下さんの遺稿集に寄稿した
「微笑の人」という文章と、遺稿集である「生きていければそれだけでいい」の書評の
二本が収録されています。
 この二本の文章は、呼応するような形となっています。
「日本文学学校研究科の小沢組の人達が、終了後もグループを作って、定期に研究会を
つづけ、同人誌『文学世紀』を出すに至った。それを幸いに、私はその後、何期か組会の
チューターを勤めるたびに、終了後は有志の人を文学世紀の会に送り込んだのだ。
アフタ・ケアの合理化。あとは皆さんでよいように切磋琢磨なさるだろう。
 はたせるかな、この会は、ある時期を活発に活動して、雑誌も二十数号を重ねたのだ。
研究会は回数が記録されていて、二百回に届いたのではなかったか。」(「微笑の人」)
「私は、当時の木下教子をよく承知しているはずなのだ。・・だが、私のその回想記は、
彼女を芯のつよい無器用型と、外から眺めるにとどまっている。作品はみな発表当時に
読んでいながら、このさい白状するが私こそ、それを稚拙と片付けていた。つまりなにも
わかっちゃいなかったのだ。
 本書で改めて通読しなおして、彼女の生涯の足跡が、一と筋たしかに刻まれていること
におどろく。今更おどろかされた分だけ、多少は人より余計に、ドラマチックに昂奮して
いるのかもしれない。
 このおどろきは、しかし快い。ひとつには当時の私が未熟だったのだろう。あのころは
まだ、とかく才気を好んだのだ。その気はいまもあるにせよ、近年ようやく地味を解する
程度には、これでも『一歩一歩着実に』熟している面があるのかもしれない。」(書評)
 木下さんは80年に亡くなって、遺稿集がでたのは81年9月、書評の発表は82年3月です。
未熟であったというのはいつ頃のことであったのでしょう。「才気を好んだ」というの
は、「若きマチュウの悩み」が刊行されたころでしょうか。
「近年、ようやく地味を」とありますが、この時47歳くらいのようです。