小沢信男著作 100

「電化以前の機関士は、何輌何十輌もの客車や貨車を引っぱって・・缶焚きの機関助手
と二人でD51を操り、出発から到着までがおのれの技量にかかっているのだから、誇り
高い人材に育って当然だろう。・・こういう人々と、私ごときが友達になれたのも、
新日本文学会におればこそだった。」
 小沢信男さんの「通り過ぎた人々」収載の「藤森司郎」さんについての文章からの引用
です。「通り過ぎた人々」では、「小野二郎」さんについての文章があって、その次が
藤森司郎」さんについてのものとなります。
 小沢さんは小野二郎さんとは、旧制中学で同級となる間柄ですので、「新日本文学」で
一緒に活動をすることになるものの、最初の出会いは、もっともっと前のことになりま
す。
 藤森司郎さんとの出会いこそは、「新日本文学会」の運動の成果でしょう。
「戦後の文学熱は、あの焼跡闇市時代の空腹の情熱ではなかったか。ただの文学青年の
私が、労働者作家たちと出会えばすぐに友達になれたのも同世代の共感だったろう。・・
 労働者が労働者の誇りと苦痛を抱いて、あんなに大挙して詩や小説を書きまくった
時代が、天の岩戸このかたいつあったものか。戦後の、それも1960年代前後がもっとも
切実で、かずかずの名品佳作を生んだ。世間が気づかずにいるだけのことであります。」
 60年代前後は、日本の高度成長ですが、文学サークルとか各種の運動も高揚したこと
がわかります。
 72年ころに「『新日本文学』誌上で、藤森司郎小野二郎との論争があった。おりし
国鉄当局が生産性を向上運動の名の『合理化』を仕掛けていて、じつは十六万人首切り
の非合理だから、組合は猛反撃する。組織破壊の合理化推進集団との闘争、と藤森司郎
報告した。動力車労組の活発な活動家でもあった。
 それを小野二郎が批判した。近視的だと。例の難解文を結論部分から推察するに、
われわれの欲望ー充足の循環構造をぶちこわす文化闘争であるはずだ、という要旨。
 藤森がすぐ反論する。敵のギマンをみぬく闘いのどこが近眼か、このさい空念仏につき
あってられるか。」
新日本文学」という雑誌の、ある意味での幅の広さでありましょうか。会員のなかで
このような論争が展開されるというのも「新日本文学会」ならではでしょう。
 小沢さんの藤森さんについての文章の結語は、次のとおりです。
「欲望ー充足の循環構造がいよいよゆきづまってきた昨今、知識人と労働者の共闘は必須
の課題ではないか。小野二郎藤森司郎の末裔たちが、けたたましいほどに談論風発する
日が、この世のどこかに、かならずや来るだろう。私の楽観。」
 この文章は2006年5月に発表のものですが、「書生と車夫の東京」が書かれてから
二十年後のことになります。