小沢信男著作 78

「私は、宗教団体のいくつかのルポルタージュを試みた。どれも短いものだが。
はじめ『思想の科学』に、日本山妙法寺について書けといわれて書いたことがある。
(1964年8月号『藤井日達とその弟子たち』)
 たぶんあのへんがきっかけだった。創価学会、大本、天理教、立川の真如苑なんて
ところにも行った。ある時期、まとめていささか新宗教の勉強をしたのだ。
 それまでは<新興宗教>と聞いただけでも虫酸が走った。そのオヤノカタキに遠巻き
ににじり寄る。おおげさに言うならそんな気分だった。本来やりたくないんだが、なぜ
かやってみたい仕事。」
 「オヤノカタキ」というと封建制のことを思い浮かべますが、小沢さんにとっては
「俗間信仰」ということになるのでしょうか。この取材を通じて、出会った「オヤノ
カタキ」の実態はとなると、次のような話となるのでした。
「わが家の近くの路上で、私は辻折伏につかまった。そして連れていかれたのが、
小さな運送屋の、ガレージの上におかぐらみたいに乗った二階屋でなんのことはない、
わが育った銀座のはずれの家にそっくりだったのだ。遠回りして、おのれの出自に
辿りついたようなもので、それでこのルポは一気にまとまった。」
 というのは、創価学会のルポのことであります。(「創価学会・この隣人たち」)
 大本教は、綾部の本部までいっての取材です。
「三千世界いちどにひらく梅の花。大本の綾部の本部でたまたま同宿した信徒の老女を
思いだす。人生の荷物をかかけた同信同士が、コンサルタントとして機能しあうことの
忌みを、この老女からも私はじかに教わったと思う。よほど気性頭脳のしっかりした
人だった。
 翌朝、その彼女が、お土さま(要するにただの土くれ)を大事そうに新聞紙につつみ
つつ、その効能を説いてくれたが、やっぱりオヤノカタキの総本家だ、と私は反発した
かというと、そうではなくて、笑いだしたいほど懐かしかったのだ。ここからお光さま
にゆく道はまっすぐだが、たとえば山岸会へと抜けてゆき道もまたあるだろう。・・
 歳月の推移、ということもある。私は新宗教一般へのアレルギーを捨て、なにか
さっぱりしてそこから遠ざかった。格好つけて言うなら、鎮魂の遍路行のようなもの
だったかもしれぬ。」 
 若いときは進歩派であったが、年をとるにしたがって保守派に移行していくといわ
れます。年を重ねて、オヤノカタキの新興宗教と折り合いがついてきたのも、加齢に
よる保守化と関係がありそうですが、それだけじゃないですよね。
関係がありそうですが、