小沢信男著作 101

 昨日の小沢さんの引用にありました「小野二郎藤森司郎の末裔たちが、けたたましい
ほどに談論風発する日が、この世のどこかに、かならずや来るだろう。私の楽観。」と
いうくだりを眼にしますと、「we face the difficulties of today and tomorrow,
 I still have a dream.」と演説をした人のことを思いだしました。この演説は、
1963.8.28「ワシントン大行進」の際のスピーチとありますが、この時から
50年近くの時を経て、合衆国ではいまだに厳しい現実はあるものの、アフリカ系にも
ルーツを持つ大統領が誕生するにいたりました。
 それと較べると、この国はどうなっているのかと思いますね。40年ほど前には、
「書生と車夫」の後裔ともいえる人たちが、同じ会に属して意見を戦わせることが
あったのですが、最近はそのような場が極めて少なくなって、社会の階層化の固定が
進んで来ているようにも思えます。
かって、徴兵検査の時が、小学校以来の別々の道を歩んできた元同級生が再会する
機会であると聞いたことがあります。最近は、公立学校離れがすすんでいるせいも
あって、特に都会では、近所の子供と、近くの小学校にともに通うということも
少なくなっているのではないでしょうか。別に徴兵検査のような機会があればいいと
思っているわけではないのですが、それにしても世間の狭い人が多くなっているよう
に感じることです。
 小野二郎さんの批判の文章は、「新日本文学」1972年6月号に掲載の「文化闘争
としての反『合理化』闘争」というものですが、小沢さんもいうところの「例の
難解文」であります。
「 今日の反合理化闘争の弱さと感じられるところは、その闘いが、自らの『反合理
性』を自覚せず、したがって徹底せず、『合理化」を非合理性の浅いところに浮上した
ところで、『知的』に指摘するにとどまる限り、その『非合理性』の総体というか、
根っこのところから、くつがえす力は生れないと思う。資本の論理の合理性が、もっと
ニュートラルな顔つきで現れるのは近代技術体系である。近代技術体系のブルジョワ
的党派性をどこに発見し、顕在化し、意識化するかが、『反合闘争』の一つの重要な
ポイントになると思う。」
 この文章は、「ユートピアンの発語訓練」晶文社 1981年5月刊 に収録されていま
した。