2010-11-01から1ヶ月間の記事一覧

side B 4

昨日に引用した「孤独のたたかい」にあった能島廉さんの紹介文は、「en-taxi」付録に 転載されている阪田寛夫さん作成の年譜をもとにしているものと思われます。 紹介文のおわりのほうにおかれている「ふしぎな裂け目を見せていたが、友人たちは 彼の人柄に…

side B 3

佐藤正午さんの言い方を借りると、能島廉さんは「行きどまりまで行ってさらに壁を 乗り越えた」人のようです。なかなか普通の人間にはできることではありませんが、 かなり早い段階から、周囲の期待に応えないというのが能島廉さんの流儀であったの かもしれ…

side B 2

本日も能島廉の「競輪必勝法」を話題とします。 とはいっても、なかなか本題にはたどりつきません。まずは「side B」です。 佐藤正午さんは、ふるさとの佐世保に戻って小説を書いているのですが、競輪ファンで あることを公言しています。(他にどんな著名人…

side B

阪田寛夫さんに反応して「en-taxi」付録 能島廉『競輪必勝法』を読んでおりました。 当方はギャンブルにはまったく不案内でありますが、ギャンブルと人生を重ねた読み物 というのは嫌いではありません。ギャンブルにヒエラルヒーがあるとしたら、中央競馬会 …

署名本と献呈本 5

昨日は阪田寛夫さんが、次女である阪田なつめ(大浦みずき)さんに贈った『土の器」 が、長い旅をしたのち、なつめさんの手に戻ったということを記しました。 そういえば、先日に「日本の古本屋」で確保した阪田寛夫さんの「燭台つきのピアノ」 は、値段は安…

署名本と献呈本 4

献呈本が古書店にでてくるのは、贈られたかたが処分したか、誰かが持ち出して 売却したかでありましょう。本もたくさんあれば、誰かが持ち出したとしても、一冊 くらいでは気がつかないこともあるでしょう。(小遣いほしさにおやじが大事にして いる本を古本…

署名本と献呈本 3

「服部滋」とは、なにものぞというのは07年5月の状況でありました。 フリーの編集者をなさっていて、bk1に書評等を発表している方であろうとはわかった のですが、どのような仕事を、現在なさっているのかは、見えてきませんでした。 それからほぼ半年たって…

署名本と献呈本 2

「日本の古本屋」にでていた小沢信男さんの最初の小説集「わが忘れなば」が高価で あったのは、08年4月18日の拙ブログに記しましたように、この本が花田清輝さんの旧 蔵本であったからでありました。古本屋のコメントには、小沢さんから花田清輝への 献呈と…

署名本と献呈本

署名本も献呈本も、ともに紙の本にしかないものでしょう。 いうまでもなく、署名本とは、作者・著者であるご本人が、自らの名前を本の扉など に記したものでありますし、献呈本というのは、自らの名前に加えて、本を贈呈する相手 方の名前も併せて記すること…

続「湯川共和国」 12

今年もあと40数日となりました。ことしはずいぶんと湯川成一さんと湯川書房に 関する話題があったようです。(まだ、すこし早いのですが、今年の回顧のような 話となります。) 一方では、ipadとかキンドルというツールを使って読まれることを前提とした作品…

続「湯川共和国」 11

伊東康雄さんの「夢のあとで」から話題をいただいています。 「 辻邦生の『安土往還記』を出したのは、一九七三年七月。この頃が湯川の絶頂期 で、三百部限定で募集をかえたところ五百部余りの申し込みがあった。私も三百人の 一人にはいらなければと、慌て…

続「湯川共和国」 10

伊東康雄さんの「夢のあとで」から、湯川さんと静岡とのつながりのところを、 さらに引用です。 学校を終えた伊東さんは、ふるさと静岡に戻るのですが、そこでの出会いからです。 「 現代豆本館の小笠原淳さんの知遇を得、その縁で小川国夫さんを紹介された…

続「湯川共和国」 9

湯川書房・湯川成一さんの活動についてですが、創業の大阪や、終焉の地となった 京都でのものは、これまで目にすることができましたが、静岡でのことについて、 もっと知りたいと思っていました。 湯川さんが制作した限定本の展覧会が初めて行われたのは、83…

続「湯川共和国」 8

本日、拙ブログに、次のトラックバックが寄せられました。ブログの主は善行堂の お客様のようであります。彼が反応してくださったのは、拙文ではなく、「仙台が親戚」 様の書き込みであります。 ( http://d.hatena.ne.jp/ConstantinFil/20101117/1289973706…

続「湯川共和国」 7

「湯川さんとその仲間たち(仮)」として企画されたものが、先月10月25日「湯川 さん 親しかった人たちの回想」(私刊本)として、少部数配布されました。これの 経緯については、昨日の拙ブログに「仙台が親戚」様が書き込みいただいたところ です。 ほとんど…

続「湯川共和国」 6

本年3月に回顧展があったせいもありまして、ことしは湯川書房・湯川成一さんに 関する情報が多かったように思います。 ちょうど回顧展のさなかにも、同じ話題をとりあげ、ここでも刊行となった冊子の タイトルを記しています。( http://d.hatena.ne.jp/vzf1…

続「湯川共和国」 5

湯川書房と湯川成一さんに関しては、当方の手元にもずいぶんと多くの資料が集まって きました。生きていたときには、あまり表にでることがなかった湯川さんですが、亡く なったことにより、湯川さんを埋もれさせてはいけないというお仲間たちの思いが、冊子 …

続「湯川共和国」 4

本の写真を、それらしくとってブログにアップするということは、とても難しいのが わかります。昨日に湯川書房版「北の岬」を写真ではなく、スキャナーでの読み込みと したのですが、これは平板で、本としてのボリューム感がなくていけません。これは すこし…

続「湯川共和国」 3

林哲夫さんが編集されていた「spin」が終刊することの取り上げから始まった湯川書房 を話題とする拙ブログですが、ありがたいことに林哲夫さんのブログで、言及していただ いた上、貴重な京都は御幸町時代の「湯川書房」の事務所内部の写真を公開してくださ…

続「湯川共和国」 2

昨日に掲載しました写真は、本年3月20日の湯川展オープニングにあわせてのパーティ の様子ですが、「仙台が親戚」様に書き込みをいただきましたように、写っていた女性 は、湯川夫人と画廊主の末方様とのことです。 このパーティには、湯川書房と関わりの深…

続「湯川共和国」

「spin」終刊のことということで記しているうちに、湯川書房に関係した本の書き手、 作り手そして読者からなる「湯川共和国」の話題となります。「湯川共和国」は、拙 ブログの中に存在する独立国ですが、湯川書房にすこしでも関心をお持ちのかたは、 皆が「…

「spin」終刊のこと 2

ほとんど縁がなかったのでありますが、たった一冊「spin」04号との出会いにより、 雑誌「spin」は忘れられないものとなりました。 編集は林哲夫さんとみずのわ出版の柳原さんでやっていたのでしょうか。 「spin edition」というのは、林哲夫さんがお使いにな…

「spin」終刊のこと

林哲夫さん、山本善行さんのブログを拝見しておりましたら、雑誌「spin」が今回の 8号で終刊するとありました 発行元でありますみずのわ出版の以下のページには、正式な発表があります。 ( http://d.hatena.ne.jp/mizunowa/20101107 ) 拙ブログに言及され…

今年の文化功労者 3

本日も中野三敏さんが書いた岩波「図書」連載の「和本教室」を話題にすることに いたします。連載最終回となった11月号のタイトルは「和本リテラシーの回復を 願って」となっています。 「和本リテラシー」というのは、この場合「変体がなと草書体漢字、いわ…

今年の文化功労者 2

今年の文化功労者で取り上げる、もうひとかたは近世文学の中野三敏さんであります。 ちょうど、今月の「図書」11月号で三十回続いていた「和本教室」は最終回をむかえ ました。当方は近世文学には、まったくなじみがないのでありますが、中野さんのこの 連載…

今年の文化功労者

今年の文化功労者の授賞式であいさつをしたのは、詩人の中村稔さんであったとの ことです。一番年長であるからなのでしょうか。弁護士でもありますが、残念なこと に中村稔さんの詩を読まれた人なんてほとんどいないのではないでしょうか。当方も 詩集は何冊…

文化勲章のこと 10

文化勲章の受賞はいつころに、ご本人たちに伝達されるのでしょうか。 受賞される男性の場合は、着用するものは紋付き羽織かモーニングと決まっていますの で、まあ一ヶ月もあれば、着用するものを用意することができるでしょうが、大変なの は女性たちであり…

文化勲章のこと 9

本日は、文化勲章授賞式でして皇居での親授の様子がニュースで取り上げられていまし た。親授式の様子は代表でしょうから、どのチャンネルも同じ映像でしょうが、車寄せで の映像は、各社ごとにアングルなどが違うのでしょうか。当方の関心は誰か羽織袴で来…

文化勲章のこと 8

昨日に引き続きで小林勇さんの「惜櫟荘主人」にあります岩波茂雄さん文化勲章受章の 挨拶文の紹介です。(1946(昭和21)年三月三日付だそうです。) 「小生自身も尊敬する著者津田左右吉博士と共に告訴され囹圄に入れられるべき身であり しにも関はらず同一…

文化勲章のこと 7

小林勇さんの「惜櫟荘主人」によると、岩波茂雄さんは1946(昭和21)年三月三日付 で受賞の挨拶状を出したのだそうです。この時の長い手紙を、岩波は熱海の『惜櫟荘』 で口述の筆記で作ったとのことですが、それを記述したのは中学生の羽仁進君だそう です。…