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佐藤正午さんの言い方を借りると、能島廉さんは「行きどまりまで行ってさらに壁を
乗り越えた」人のようです。なかなか普通の人間にはできることではありませんが、
かなり早い段階から、周囲の期待に応えないというのが能島廉さんの流儀であったの
かもしれません。
 能島廉さんで検索をかけたら、次の本にヒットしました。今回「en-taxi」の付録で
出会った作品については、なんと今から36年前に手にしたアンソロジーに収録されて
いました。

 全集「現代の発見」別巻「孤独のたたかい」(74年7月第三刷)です。当方は、この
シリーズの数冊しか購入していないのですが、あの時代らしいアンソロジーと思います。
これの編集の中心にいたのは、伝説の編集者 八木岡英治さんです。この「孤独のたた
かい」の解説は八木岡さんが書いていますが、ここにプロフィールがあります。
( 拙ブログでは、過去に数回八木岡さんに言及しているのですが、その時は、この巻
に八木岡さんのプロフィールがあるとはわかっていませんでした。)
「 1911(明治44)年 京都府に生まる。京大文学部卒。1年上に大岡昇平がいたが終
戦後彼の最初の小説原稿依頼者として相会うまで顔を見たこともなかった。学校に関す
る一切のものを嫌悪し、一種無頼の放浪に青春を徒費した。容易に小説の形をとりうる
ごとき文学に疑いをもち、二十三才はじめての作品『終り』を小さな同人誌に発表、
一部の評価を得たが、そのまま長い闘病の生活に入る。戦時下、文学のなすべからざる
を知り、編集者の道をえらび中央公論社NHK、戦後ふたたび中央公論社へ。のち季刊
文芸誌『作品』を主宰し、文学における新しい熱源の所在を模索した。文学と自己に
課することあまりに多く、余事に韜晦する傾きがある。今は出版社に身を寄せ、
『全集・現代文学の発見』に熱中している。」
 八木岡さんの場合は、どうも引き返した人のようであります。
 「孤独のたたかい」には、能島廉さんの「競輪必勝法」が収録されているのですが、
これの能島さんの紹介文は、次のようになります。
「 1929〜64 本名 野島良治。宮崎市に生まれたが、菓子商の父が他人の借財を
負って倒産。一家は郷里の高知市に帰った。海南中学に入学、体力知力抜群の良治
(よしはる)は「ヨシワル」と呼ばれたという。昭和19年名古屋陸軍幼年学校に入学
するが終戦
ふたたび同中学へ。四年終了で旧制高知高校文乙入学。ハンマー投げ選手、部長に高橋
幸雄がいて親交を生じた。東大法学部へ進むとおもわれたのに独文へ入り、皆をがっかり
させ、卒業後は小学館に入社。少年雑誌などを編集した。第十五次『新思潮』同人。
 三浦朱門に劣等感を抱くような話を作品にして書いて発表。死ぬまで同誌に出した
小説およそ十一篇、ふしぎな裂け目を見せていたが、友人たちは彼の人柄に魅せられるに
急で、そのことには深い注意を払わなかった。そんなに早く死ぬとは思わなかったからで
あろう。『競輪必勝法』の原稿が友人間を廻っている間に病気はこの異材を連れ去った。
だから遺作ということになる。重い哀しみが底に沈んでいる。」
 陸軍幼年学校、四年終了で旧制高校入学と秀才といわれるにふさわしい経歴であります。
一番周囲の期待に応えたのは、この時まででしょう。文学部独文に進んだところから、
周囲の期待に反するというのを、自分のモットーとしてそれに精力を費やしたとしか
思えないことです。