文化勲章のこと 7

 小林勇さんの「惜櫟荘主人」によると、岩波茂雄さんは1946(昭和21)年三月三日付
で受賞の挨拶状を出したのだそうです。この時の長い手紙を、岩波は熱海の『惜櫟荘』
で口述の筆記で作ったとのことですが、それを記述したのは中学生の羽仁進君だそう
です。
 岩波茂雄さんは、羽仁もと子さんのことを尊敬していて、娘さんは羽仁さんが創立し
自由学園に通っていたのとあります。羽仁進さんが熱海の別荘に来ていたというのは、
父親の羽仁五郎さんについて来ていたのかもしれませんが、それ以外にも学校つながり
があったようです。
 この時に、羽仁進さんが筆記した岩波の受賞の挨拶状が、小林勇さんの本に引用されて
います。
「小生先般文化勲章を拝受せしにつきては早速御懇篤なる御祝辞を賜はりまことに有り難
くここに当時の心境を叙して御礼に代へ申候。・・・
 斯くて十一日文化勲章を有難く拝受致し候が実の処我々の著者たるべき学界や芸術界に
て一世に卓絶した人々に伍して小生の如き一町人が文化の一配達夫たるに過ぎざるに是を
戴く事は余りに光栄であり恐縮であり身にピッタリせぬものあるを感じ申候」
 これが冒頭からの一区切りであります。ここでは、「一町人」で「文化の一配達夫」に
過ぎない自分には身にあまるといっています。戦争末期には、高額納税者となって貴族院
議員に選出されているのですから、「一町人」というのは、そうかなと思いますが、まあ
「本屋風情」といわれたりするのですから、そういった周囲には、このくらいへり
くだっていっていたほうがよろしいのでしょう。

「考へてみればこの間まで多少とも国のため世のためになったかと思はれる出版物により
小生の店は種々の圧迫を受け来たりしが最近に於ても何らの理由なくして小生の部下の
者は拘引され百十日間も留置されあらゆる拷問を加えられたるが敗戦とともに拘留の要な
しと釈放されたる事実之有候。」
 同業の改造社は、こうした圧迫によって結局は、会社を廃業へと追い込まれ、中央公論
社においても同様でした。これに続いて、岩波書店を廃業に追い込もうという意図から
様々な嫌がらせが、時の権力から続いたのであります。