文化勲章のこと 8

 昨日に引き続きで小林勇さんの「惜櫟荘主人」にあります岩波茂雄さん文化勲章受章の
挨拶文の紹介です。(1946(昭和21)年三月三日付だそうです。)
「小生自身も尊敬する著者津田左右吉博士と共に告訴され囹圄に入れられるべき身であり
しにも関はらず同一の理由にて最高の国家勲章を戴きしことは価値の転倒した世の出現に
より初めて可能となりしことにて所謂百八十度の回転とも申すべきかと存候。惟ふに封建
時代以来士農工商と称し町人の社会的地位の最も低かりしは実際の町人の心掛がよくなか
りしことに甚くとはいへ当然の社会的義務を尽す場合には町人と雖も賤劣なる職業にあら
ざるべしといふのが小生の考にて小生は創業以来町人としての心掛を悪くせざるやうに
努め来りしつもりに候。是が幾分とも町人の社会的地位を高むるに役たちしとすれば小生
の本懐とする所にご御座候。」
 岩波茂雄が受賞した年から文化勲章は復活したのですが、これとあわせるように、叙勲
は廃止となります。岩波が挨拶文を発した時には、まだ叙勲の廃止は決定していないよう
でありますが、占領軍の方針では叙勲制度を廃するのは既定方針であったのでしょう。
「最高の国家勲章を戴きし」と岩波の文中にありますが、これは勲一等とかの勲章が
なくなっていることによるものでしょう。
 叙勲制度が復活したのは1963(昭和38)年のことでありますが、これは「町人の社会
的地位を高むる」に役立ったとは思えないことでありました。
 大戦が終わって、ほとんど革命的ともいうような社会の地殻変動が起きていたのであり
ますが、それは経済の高度成長を背景にしてある種の安定期に向かいます。
それの象徴的な出来事として叙勲の復活などがあったのでしょう。
「今日小生は日本の文化に寄与せしなどと数多くの人から言はれ候も誰一人として町人道
のために尽くしたと言ってくれる人なきを不思議に思ひ居り候。若し小生に何らかの文化
的功績ありとすればそは小生が市民生活の結果にして是をかれこれ言はれるよりも自分の
初めより一市民として独立自由を愛し偽り少き生活をすることに努め最低とされ来たれる
町人の社会的地位に寸尺の貢献ありと言はれるが寧ろ本懐に存候」