小樽にゆかりの 7

 1939(昭和14)年4月、瀧口修造さんの愛する長姉の病重しとの知らせを受け、小樽
に急行、そのまま亡くなるまで看病をしていたとあります。
 時代は、戦時体制への固めを行っているところで、瀧口さんの周囲には、「特高
情報局からの圧迫が押し寄せる」とあります。この時期に最愛の姉の死亡であります
ので、精神的には相当なショックはを受けたことでありましょう。
 瀧口さんは、このあと1941(昭和16)年3月5日午前7時頃に警視庁特高刑事三人に
寝込みを襲われ、証拠品の押収とともに、杉並署の留置場に連行されたとのことです。
 この時代においては、シュルレアリスム運動も危険思想の一つでありました。警察
に連行されたことの原因の一つは、「自筆年譜」によると、次のようになります。
「調べの中心は日本のシュルレアリスム運動が国際共産党と何らかの関連があるかどう
かなどの点にかかる。執筆誌中にブルトンとの文通の記事を発見されきびしい追求を
うける。この手紙類は妻に通報し陰匿して第二回の家宅捜索から免がれる。」
 結局のところ、この連行から連日の取り調べとなったのですが、「心理的威嚇と
脅迫」にはほとほと疲れるとありました。