小樽にゆかりの 10

  瀧口修造さんに影響を受けた芸術家は数多くいまして、瀧口さんにはたくさんの
オマージュが寄せられています。当方が、瀧口さんという存在を知ったのは、どうやら
大岡信さんが紹介する文章によってであったようです。(それにしても、最近の大岡
信さんは沈黙が続いていて、心配なことであります。)
 飯島耕一さんが発表した瀧口さんについての文章を見ていましたら、大岡さんはどの
ようなことを書いていたろうかと思ってしまいました。(大岡さんは、「本の手帖」と
現代詩手帖」が行った「瀧口修造特集号」の両方に寄稿しているのですが、それは
どちらも詩作品でありました。
 それはさて、飯島耕一さんによる瀧口修造さんに関する複雑な思いについてでありま
す。それは短編小説集「冬の幻」に収録された「遠い傷痕」という作品にありです。
 飯島さんの『遠い傷痕」から引用です。
「藤堂はTさんの戦時中の詩にまだこだわっていた。藤堂はTさんが死んで二年もなると
いうのに、まだTさんのことを考えていた。・・・・Tさんがあの詩を書いたのはどうし
てなのか、またあの詩を書いたことが、Tさんにとってどんなに厄介な負担となって
しまったのか、ということをめぐって思いが寄って行くということだった。」
 小説の中の飯島さんは、瀧口さんが発表した詩について考えています。
「十二月八日、真珠湾の奇襲で太平洋戦争は起こった。
 多分その翌年の一月のはじめに、Tさんは『大東亜戦争と美術』という二ページほどの
評論を発表していた。そして多分その次の年の中頃に、『春とともに 若鷲のみ魂にささ
ぐ』という詩を書いた。それは十八年の十月に出た戦争詩のアンソロジー『辻詩集』に
求められての詩作だった。これは名高い詩集だった。ところがTさんの詳細をきわめた
自筆年譜にも、その詩を書き発表したことは記されていなかった。ましてTさん自身、
こういう詩を書いたことがあると口にしたことは、Tさんと藤堂のつき合った三十五、六
年の間、一度もなかった。」 
 どうやら、このところが、瀧口さんが求められていた「存在証明」に関してのことで
あるようです。これを発表する手続きを踏むことによって、瀧口さんは昭和18年に職に
ありつくことができ、なんとか生きながらえることができたのであります。