小樽にゆかりの 8

 1941(昭和16)年三月の連行にはじまる拘留は、「夏、検事勾留となり、調べ直し
となるが、やや論理の軌道に乗り、シュルレアリスムの本質論と現実政治との関係に
ふれるとその応酬は混沌として若い検事にも困惑の表情が見える。私自身の内部でも
本質的に未解決の問題であった。結局、時局に際し、今後慎重に行動するようにと
いう訓戒で起訴猶予処分のまま十一月十一日釈放される。」
 瀧口修造さんは、特に定職についているわけではなかったので、それまでも、どの
ようにして生活を維持していたのか、不思議な感じがいたします。もともとは父親が
残した遺産をたよりにしていたのでしょうが、大学に再入学してからの費用は長姉に
依存したとあるのですから、長じてからは生活もたいへんであったと思われます。
こうした時期に、半年以上も警察に高速されることになるのですから、経済的にとて
も厳しいものがあったと思います。
 瀧口さんの自筆年譜には、この拘留時期の生活費については、つぎのようにありま
す。
「この間の生活費は偶然にも前年、最後に残っていた祖先伝来の宅地を売却した金で
つなぐことになる。帰宅後、反動で健康しだいに悪化する。十二月八日太平洋戦争
勃発、しばらく周囲より白眼視される。」
 特高に踏み込まれて、連行されたのですから起訴猶予であったとしても、当時の世
では、非国民といわれることになります。
 結局仕事についたのは、保釈されてから二年後のこととでした。
「1943(昭和18)年生活いよいよ窮迫、保護観察司しきりに就職をすすめる。・・
暮れ頃から国際文化振興会事業部の嘱託となり、日本文化史図録をつくる名目で、
京都、奈良の古美術を撮影することになる。」
 保釈されてから職につくまでの間、1942(昭和17)年の自筆年譜には、次のように
ありました。
「釈放後、毎月一回は保護観察司が訪れ、しきりに従前通り執筆活動をつづけるよう
迫る。存在証明が要求されたのである。五月、文学報国会が設立され、日本詩人協会
はその傘下に入り、機関誌『現代詩』も変質する。」
 1942年には、「存在証明」が求められたのでありますが、その翌年の暮れにはいか
にもわけありの団体の嘱託として採用されたのです。この間になにがあったのかです。