本日は「平成史」を読む

 本日は図書館から借りている中村稔さんの「私の平成史」を読み継ぐこと

になりです。

 朝起きて、まだ暗いなか朝刊をとってきて布団のなかで読書欄に目を通し

て、そのあと「私の平成史」を読もうと思ったのですが、今朝は気温が下がって、

火の気のない室内で本を読むのは、ちと厳しいので布団にもぐって二度寝

なりました。(今朝の最低気温は、朝7時16分にマイナス12.6度。雪がないの

がありがたく、寒いのはガマンです。)

 結局、「私の平成史」を読むことができるようになったのは、午後のなってか

らで、この時間には気温があがってわずかにマイナスで、室内にいてもストーブ

を消して過ごすことができました。

 中村稔さんの「平成史」は、社会の動き、弁護士としての仕事、文学者として

の役割と詩作、そして家族のことなどが書かれています。

 世界情勢についてはサーッと読んで、弁護士としてのことについては、そんな

裁判を担当していたのかとで、古くからの友人のことについては、そういう最後

であったのかと思ったりです。

「この年(1995)11月から、後に『文学館感傷旅行』と題して新潮社から刊行し

た文学館を訪れる旅を始めた。誰から頼まれたわけでもない。費用は自弁で、

多くは亡妻と同行した。全国文学館協議会加盟の五十三館に加えて、宮沢賢治

記念館と越谷市立図書館野口富士男文庫の二個所を訪れてその感想を記した

ものである。・・・

 それぞれの文学館から私が教えられることは多かったが、忘れられないのは

お会いした人々であった。私が敬愛してやまない日高普の軍隊時代の上官で

あった沢田誠一さんが北海道文学館などの推進者のお一人であったことから、

同館で沢田さんに初めてお目にかかったことが一つの事件であった。」

 このくだりを目にしてちょっと驚いたのは沢田誠一さんが、日高普さんの上官

であったということですね。それが逆であれば、不思議でもなんでもないのです

が。

 沢田誠一さんは、現在は札幌市となっている豊平は平岸のお生まれで、りんご

農家のかたわら文学に取り組まれ、小説などを発表して著名でありました。

その縁で、1995年には財団法人北海道文学館の理事長をなさっていました。

豊平の平岸というのは、当方が生まれたところの隣の集落でありまして、なんと

なく身近に感じる名前であります。

 沢田誠一さんのウィキを見ましたら、商業学校を卒業後に陸軍高射砲学校を

卒業したとありますし、終戦時には高射砲隊の中隊長とありますので、それなり

の幹部であったのですね。

 日高さんのほうは帝国大学を卒業していますが、その信条から幹部候補には

ならず兵のままであったのでしょうね。沢田さんが良い上官であったことが、

日高さんから中村さんに伝わって、この時に日高さんのことも話題になったので

ありましょう。

 中村稔さんには、ほんといろいろな切り口があることです。