新義州でつながるか

 先日に訪れた京都岩倉の安価な本を二冊抜いて購入したのでありますが、

この二冊は朝鮮半島つながりの本でありました。

 1冊はヤン・ヨンヒさんの「朝鮮大学校物語」ですから、これは日本で生きる

共和国民の話ですから、半島につながっているというのはわかりいいのですが、

もう1冊は古山高麗雄さんのもので、こちらは生まれが戦前の統治下の半島で

ありました。名は体を表すでありまして、高麗というのは朝鮮半島を一つにして

建国した王朝の名称であります。

 古山さんが生まれた新義州について書いた文章を過去にも話題にしており

ますが、先日に購入した「他人の痛み」中央公論社 昭和54年刊(そういえば

これは中公文庫にはいっていて、それを求めているようです。)には、「第二の

故郷・新義州」というエッセイがあります。

 新義州というのは朝鮮でも、川をはさんで中国と接する国境の町でありまし

て、朝鮮半島の付け根にある町となります。古山さんは、ここで開業している

医者の子どもとして生まれたのですね。

「そんなわけで私は、新義州生まれということになったが、私には新義州を故郷

といってよいかどうか迷うところがある。

 それは新義州にいた少年時代からそうであった。新義州で生まれても、私には

内地から渡って来た者としての意識があって、どの意識が、彼地を故郷と考える

ことを躊躇させるのである。」

 ということで、古山さんにとっての新義州は、第一がなくて、第二の故郷となる

のですが、「今の新義州には、私が育った日本人町はなく、つきあった日本人も

いない。朝鮮も北側にあるから訪ねることもできない。かりに訪ねることができた

としても、まるで別の町のように代わりはてているに違いない。」とつながって

いきます。

 古山さんの「小さな市街図」からして、新義州日本人町を再現しようという

話ですから、デビューから晩年まで新義州にはこだわりをもっていたということ

になります。

vzf12576.hatenablog.com 古山さんの新義州を訪問する話は、「妻の部屋」にあるのですが、ほとんど

肩透かしにあったような訪問記であります。1995年くらいですから、今は

もっと新義州へと行くのはたいへんでありましょう。

 ヤン・ヨンヒさんの「朝鮮大学校物語」の第三章は「1985年 三年生の秋」

というタイトルで、大学校の卒業旅行で新潟からマンギョンボン号を共和国に

渡る話となります。

 主人公がこの旅行に参加する一番の目的は、組織から指名されて片道切符

で共和国に渡った姉と面会することでした。

このお姉さんは、共和国で結婚して、ピョンヤンで音楽活動をしていたのですが、

なぜか夫婦して新義州(シニジュ)へと左遷されていたのですね。

 なんとしても新義州に行って、姉に会いたいということで、手を尽くして面会

しようとするのですが、総連をバックにした主人公であっても、新義州を訪問

するのは大変であったことがわかります。

 今であれば、絶望でありますね。