特別列車の旅 2

 先日の特別列車があっという間に通過したであろう丹東と新義州という国境の街の
話を、古山高麗雄さんの小説にそってでありますね。
 まずは「小さな市街図」からでありますが、朝鮮半島の38度線より北を故郷とする
日本人は、そこを離れてから、ほとんど訪問することができなくなっているはずです。
古山高麗雄さんが生まれ育った新義州は、非開放地区となっていて、特別な手続きを
経なければ訪問は困難で、手続きを経ていても、突然に訪問許可が取り消されること
があるということです。
 そのまえに、小説「小さな市街図」(1972(昭和47)年 発表)からであります。
 話は、戦後25年くらいを経過したころのことになります。
「吉岡久治が朝鮮新義州の市街図作りを始めたのは、昨年の五月だった。あれから
もう一年のうえにもなるのに、久治は、進捗については自信が持てないのだった。
・・・市街図といっても、街頭に掲げられているペンキ書きの町内居住者案内図の
規模を拡大したようなもので、正確な縮尺を作ろうというのではなかった。」
 25年くらいたってから、かっての居住者たちの記憶を集めて市街図つくりの作業で
ありますが、今でありましたらゼンリンの住宅地図が存在しますので、25年前の町並
みを確認するのは、造作もないことでありますが、戦前の、しかも再訪がかなわない
故郷の市街図つくりであります。
 古山さんが育ったころの新義州とは、どのような町であったかということについて
は「小さな市街図」に、次のようにありです。
「なにせ新義州は小さな町だったから。内地人の学校は、すべて一つずつしかなかっ
た。その程度の町さった。新義州はそれでも平安北道の道庁の所在地で、北朝鮮の黄
海側では平壌に次いで人口の多い町だったのだ。だが人口五万では大きいとは言えな
いのである。しかもその五万は、一万ほどの内地人町と、同じく一万ほどの支那人
と、三万ほどの朝鮮人町とに分かれていた。」
 新義州の人口の二割が日本人というのは驚きですが、ここにある道庁という言葉に
近しいものを感じることです。日本で道庁ということばになじみがあるのは、北海道
だけでありまして、北海道という名称は、なんとも外地風であります。
 古山さんは、なんとかしてこの故郷 新義州への訪問を試みるのでありますが、そ
の顛末については、「妻の部屋」にあります「北朝鮮を訪ねた」の中に記されていま
す。

妻の部屋 遺作十二篇 (文春文庫)

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