作曲家の大中恩さんが亡くなったと報じられています。12月3日の
ことで94歳とあります。新聞の見出しは「サッちゃん」「いぬのおまわり
さん」となっていました。
目にした新聞には「椰子の実」を作曲した大中寅二を父に、音楽学校
では信時潔に師事して作曲を学んだとあるのですが、ここまで書いてくれ
るなら、阪田寛夫さんと従兄弟とあってもよさそうなものですが、字数の
都合でありますか。
阪田寛夫さんが世に出るのは、作詞家としてのほうが先でありますが、
それに曲をつけていたのは、ほぼ大中恩さんでありました。阪田さんは、
著書が多いので、あちこちに大中父子(寅二と恩)は登場しますが、
大中さんが阪田さんについて書いたものといえば、詩集「サッちゃん」の
解説がありました。
大中さんは、次のように書いています。
「彼について、彼の詩について書くことを承諾してしまったのは、やはり
彼の詩に魅かれるからという一語につきるのです。では彼の詩のどこに
魅かれるのかと言われると、私のようなゆきあたりばったり、その瞬間瞬
間にドキッとする人間には、言葉上手に理論正しく説明なんてできないの
ですが、曲を作る立場から言えることは、(私が、従兄という特権を利用し
て彼の詩を独占作曲していた昭和二十年後半から三十年代には)それ
が何であるかも考えもせず、ただ新しい語感をもった彼のコトバの突然の
出現に胸をとどろかせながら、次々に出来る詩に期待を寄せて対決した、
ということだけです。」
こうして大中さんと組んで阪田さんは作曲家たちから「音楽のわかる詩
人」として評価されることになり、「小説よりも詩に力を注いでほしい」と
作曲家たちより言われることになります。
阪田さんの小説作品で代表作の一つである「海道東征」は、この組曲の
作曲家 信時潔を取り上げたものですが、この作品には音楽学校で教え
を受けた大中さんが登場して、信時さんのことを語ってくれています。
ここでは、阪田さんが大中さんについて記しているところを引用です。
「従兄は今も抒情的な歌曲や合唱曲を主に書いていて、その点では師と
同じだが、戦争中の作曲家の生徒時代には信時風の堅実な歌曲にまじっ
て、まるで風にそよいだ半透明な草の芽、とでも言うほかない曲も書いた。
年に一度か二度、彼が大阪の私の家に遊びに来て弾き語りで聞かせてく
れるその音の甘さを、私はねたましく思うほどに愛好したものだったが、
従兄の回想から推測すると、信時はそのようなやわな甘さを末梢的で風説
に耐えないものと断じて、仮借なく切り棄て、旋律にも和声にも勁くまっすぐ
な骨格を通そうとした。」
古武士のような風貌で「海行かば」の信時潔と、「サッちゃん」の大中恩」
の逸話であります。
大中さんは、阪田さんが先に亡くなって寂しかったことでありましょう。
94歳といえば、年に不足はなしです。