竹内勝太郎さんの本「藝術民俗學研究」の装幀をしていたのは、画家の庫田叕さん
であります。後年になって東京芸大教授となるのですが、若いころはたいへん貧乏で
あったと、庫田夫人であった詩人 馬淵美意子さんが書き残しています。
それにしても、庫田叕さんについての情報がもうすこしあってもいいと思われまし
た。ネットにはなんでもあると、良くいわれるところですが、検索するとヒットはす
るものの、拙ブログが検索の上位にくるようではお話になりません。
戦後の早い時期に馬淵さんが竹内勝太郎さんの詩を読んで評価したことが、その後
の竹内著作への装幀につながったように、富士正晴さんは書かれていました。
富士正晴さんは、どうして庫田・馬淵夫妻と知るようになったのでしょうか。
馬淵美意子さんの年譜(庫田叕さんが記されたもの「馬淵美意子のすべて」収録)
によりますと、次のようにありました。
- 作者: 馬淵美意子
- 出版社/メーカー: 求竜堂
- 発売日: 1971
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D氏の招きによって十二月、京都に向ふ。
1946 京都下鴨のD氏宅。食糧難、加へて時に常軌を逸するD氏との同居にて
ノイローゼ。・・
一年半にて高木町上野宅二階に移る。京大学生、今居、川勝、清水の三人組、
富士正晴、大山定一氏などしばしば来訪。
1947年になって、庫田・馬淵夫妻のところを富士正晴さんが訪ねたとあります。
なにがきっかけであるのかわかりませんが、これが富士さんとのつきあいのはじまり
のようです。富士正晴さんの著作のどこかを見ましたら、なにかわかるかもしれま
せんが、これはあとで見てみることにします。
馬淵さんの草野心平さんあての1949年の書簡には、次のようにありました。
「何しろこの頃の貧乏はお話にならなく結婚以来始めてのやうなことで、私共のこん
なに弱るのも一つには食物のせいだと思ひます。チクマが駄目ですし河出はあの通り、
他のところは手がかりがないし、でも福村が叕にだけは特別によくしてくれますので
助かるやうなものの、その位のことではどうにもならないし、あなたは頼りにならぬ
ことがわかったし、昭森社は一生懸命になってくれるやうですけれども一寸力の足り
ないところがあるし今は仕方がないのでただぢっと堪えてをります。柏木一家の底な
しの親切がなかったら、私共とてもここにはゐられないのですけれども。人間といふ
ものは中々死なないものですね。貧乏ぐらいでは。叕はまう装幀には頼れないので、
どうかしていい画をかきたいらしく、寸刻を惜しんで勉強をしてをります。」
ちょうど1949年の書簡ですから、これは福村書店からでた竹内勝太郎さんの「藝術
民俗學研究」の装幀をしていったころのものですね。