庫田叕さんについて 3

 一昨日に庫田夫人 馬淵美意子さんが草野心平にあてた1949年の書簡を紹介した
なかに、次のくだりがありました。
「あなたは頼りにならぬことがわかったし、昭森社は一生懸命になってくれるやう
ですけれども一寸力の足りないところがあるし」
 これは生活苦のなかで仕事を求めていた夫人が、お仲間である草野心平さんに
訴えたものでありました。
 馬淵さんが「昭森社は一勝懸命になってくれる」と書いているということは、
庫田さんが装幀を担当した本が、昭森社から、そこそこでているということです
ね。昭森社といえば、「本の手帖」の別冊「森谷均追悼文集」というのがあって、
これに刊行書目総覧が掲載されていました。
 これで庫田さんが担当している本を見てみましたら、昭和17年12月に立野信之さん
の小説集が最初のようで、ついでその翌年に草野心平さんの詩集「富士山」の装画
を担当していました。
 この「本の手帖」別冊には社主であった「森谷均」さんの友人葬の様子が再録さ
れているのですが、葬儀委員長は西脇順三郎さん、葬儀委員のなかに庫田叕さんの
お名前はあるのですが、追悼文集に書かれたものがなく、これは残念でありました。
それじゃ、どうして庫田さんは森谷均さんの葬儀委員(他は詩人 黒田三郎、三好
豊一郎さんと彫刻家 田畑一作さん)となったのでしょう。
 この追悼文集をぱらぱらとめくって庫田叕さんが登場するところをさがしてみま
したら、何度かでてきました。
 まずは黒田三郎さんの文章からです。
「今度の葬儀のさい、御家族から画家の庫田叕氏に話があり、その指示を受けて僕
はお手伝いしたが、その庫田氏のお宅へいったのも、もう十数年前森谷さんに連れ
られてであった。僕には関係のない用だったと思うが、そういうことがなければ、
全く庫田さんとは見ず知らず、というわけであった。」
 森谷さんが亡くなったのは、1969年のことでありました。亡くなってすぐに庫田
さんに連絡がはいったということは、家が近いせいとお付き合いが密であったせい
であるようです。
 それにしても、庫田さんの存在は伝わってくるものに、肉声が聞こえてこないこ
とでありまして、これが庫田叕さんという人でありましょうか。