馬淵美意子のすべて 6

 馬淵美意子さんは、二十歳の時に親がきめた相手との結婚をしたのですが、「二児
を得れどもその結婚生活は極めて悲惨な破局へ向ふ。神経衰弱、ブローム剤の常用、
心身の衰へその極に達す。母の強い要請によってようやく離婚成立。その後、この
期間のことは触れるべからざるタブーとなる。」と年譜にあります。
 年譜を記しているのは、ご主人である庫田叕さんで、「馬淵美意子のすべて」の
なかには、この時代のことについてふれたものはありません。
 離婚して7年程ほどで庫田さんと出会うのですが、二人で絵画作品の頒布会を計画
すれど成功せずで、生活は困窮したとのことです。そのうえ、庫田さんは病気がちな
のですから、「質屋通ひの生活」というのも納得です。
 馬淵年譜の1937年から引用です。
「神奈川県吉浜山上の帝美分教場にラムプと七輪の生活に入る。生活費は月々福島
繁太郎氏より支給されはしたが生活は苦しく、週に一度友人の経営する女学校に絵の
教師として通ふ。貧乏生活の中で二人して絵を描くことの困難を痛感、画業放棄を
決意する。然し内心の欲求不満は如何ともし難く、その吐け口が日誌となりエッセイ
となり、遂に散文詩となり心平さんの『これは既に立派な詩だ』と言ふ言葉によって、
ようやく詩はわが生き甲斐といふ落着きを得るに至る。」
 絵描きのご夫婦で、ともに切磋琢磨しながら制作を続けたなんて方もいらっしゃる
のでしょうが、現実はきわめて厳しいようでありまして、それが詩人を生んだという
ことでしょうか。