古田晁記念館資料集 6

 かたや旧制三高教授時代に、奥様が給料の受け取りをするために会計窓口に現れたと
いう伝説のある深瀬基寛さんと、筑摩書房正史にもその酒癖が記録された古田さんのや
りとりでありますので、深瀬さんと唐木順三さんの往復書簡のように、このお二人の
往復書簡が発掘されれば、どんなに興味深いかであります。
 記念館資料集を編集した晒名さんは解題で次のように記しています。
「深瀬書簡に『吉報拝受』などと見える深瀬宛古田書簡もおそらく深瀬書簡に近い数の
ものが存在することを期待して、本書の編集にあたりご令息深瀬寛氏とご愛孫嶋田鈴子
氏を煩わせて探していただいたが、このたびは残念ながら発見されなかった。」
 古田さんを追悼する文集「そのひと」径書房版には、「火の車板前帖」からの抜書が
掲載されていますが、「火の車」のオーナーであった草野心平さんが、「古田晁の酒」
という文章を寄せています。このなかに次のようなくだりがあります。
「深瀬基寛夫人に一番信用のなかったのはどうやら古田と私が筆頭であるらしかった。
古田が深瀬家の台所からはひろうとしたら夫人にバケツで水をぶっかけられたといって、
彼は笑ひながら自分に話したことがある。私は私で旅からの帰途深瀬家に寄ると、夫人
に『こん度はご親切にお寄りくださらないと思ってゐました』と玄関でやられた。
(それだけ夫人は主人思ひだったのである。)」
 この時の深瀬さんは京都大学教授でありました。
 「吉報拝受」という深瀬さんからの手紙は、昭和34年1月16日付とありますので、
京都大学を退官(昭和33年10月12日)して三ヶ月後のものです。
「 吉報拝受 あの方のきざしがみえた由、美智子ブームと共にお慶び申し上げます。
分けられるものなら、小生の分を人工授精して進ぜたく存じていた矢先きとして、文字
通り同慶の至りです。・・
 実は昨夜発心して手紙を差し上げようと思っていた矢先、もしも今朝お手紙が舞ひこ
まなかったらご被害はなかったかもしれませんが、もしも小生のこの手紙によりご被害
を生じたら、責任の半分は神田にありとご承知ください。
 結論は例により印税前借という古い手ですが、こんどの実情にはいささか色っぽい
いわれあり、小説の種になること故、辛抱してご聴取下さらば幸甚に存じます。
いづればれましょうが、なるべくは当分お胸の内に願ひます。」
 という書き出しの文章となります。書き出しの三行に吉報の種明かしがあるようで
すが、これはたぶんあのことでありますね。それに続いて、なぜ前借したいかという
ことがあかされるものの、「手紙では思うようにおのろけが書けませんので、いづれ
酒の勢を借りて申し上げることとして、御手紙の返信に飛んだことを申し上げまし
た。」なんて書かれています。
 こうした手紙のやりとりが、深瀬夫人に露見したとすれば、古田さんがバケツで水
をかけられたとしても不思議ではありませんし、深瀬さんへの来信がきれいに処分さ
れていても当然のように思えます。