手紙が語る戦争3

「手紙が語る戦争」みずのわ書店刊の冒頭には、この本をまとめた「女性の日記
から学ぶ会」の代表である島利栄子さんの講演がおかれています。
昨年6月に、会発足十二周年を記念する集いにおける基調講演です。
「戦争の体験者がご高齢になり、世代交代の波が押し寄せてきているのですね。
手紙を出した方はなくなっていますし、手紙を受け取った方も高齢化しておられる
時期なのではないかと思います。記録がでるということは、世代交代の時期とも
いえるわけです。」
 歴史研究者が指摘しているのだそうですが、今まで昭和の記録が大量にでて
きたのは、「終戦時」「明治百年となった昭和40年」そして「昭和天皇崩御
の前後となるとか。これがちょうど20年ほどの間隔で、この20年というのと
世代交代が重なるだろうということのようです。
そうすれば、平成21年というのは、また大きな世代交代の時であるのかも
しれません。これだけ不況がいわれていますので、家などを手放す人もいつも
よりも多くて、そのために書画骨董や古書などを処分する人もでてくるので
しょう。ついでのように古文書などを処分するのでしょう。古文書などは、
見る人がみれば、宝の山であるということがわかります。
 軍事郵便というのは戦地との手紙のやりとりをしたものでありますが、これは
日清戦争のころには決まりができたとありますので、百年以上も昔からある
のですね。小生が目にした軍事郵便というのは、第二次世界大戦時期のもの
でありますが、これは小生の父が保存しているものでありまして、出征した
父の友人からのものだったように思います。この本には、「いわゆる日支事変
当時は宛名も場所もはっきり書かれスタンプも売ってありましたが、戦争の
激化に伴い、日時、場所などは軍事機密だったのでしょう。書いてはならず、
『検閲』のスタンプが押してあったら、場所などが書いてあるところや内容も
墨で消されたものもあります。なんとか隊、なんとか班などとかくのが精一杯
だったようです。昭和19年後半になると、国内からの書簡も一括返却される
ケースも増えていきます。」
 戦争中に慰問袋なんてのがあったことを聞きますが、このようなものも、
どのようにして戦地に届けられたのか、本当に不思議に思います。
「 戦地から来る書簡は子供や、妻や老いた父母の身を案ずるものが多いわけ
です。優しさと、思いやり、感謝の言葉が毎回綴られています。もし毎日一緒に
暮らしていたら、男性はそのような優しい言葉を家族にかけたでしょうか。・・
特に死ぬ事を前提にしての書簡は、もう二度と書けないかもしれない思いが
あったからこそ、家族を思う気持ちがまっすぐに表されていて感動を禁じえま
せん。」
 
 文学全集の書簡を見ていたら、次のようなものがありました。
「昭和12年12月11日  湖州にて。柳川部隊丙兵站部近衛第八陸上
 輸卒隊・及川部隊本部。(はがき 軍事郵便 )
 
 結局十一月二十四日上海O・S・K埠頭に上陸、直ちに行軍また行軍五十里余を
歩んで十二月七日この任地湖州に達した。よく頑張れた。寒夜徹夜の行軍にも
頑張れた。いまはしばらくここにいられそうで(すくなくともあと一週間は)
やや落ち着いている。廃墟の街にも日は照り、昼はあたたかい。夜の寒さは格別。
水と揚柳と橋、茫漠たる稲田、なるほど支那の田舎は、草曳く身にも、実に豊かで
美しかった。いづれ所属の丙兵站部の移動と共に奥地の方へ動くだろうが、
便りは表記の宛名にしてくれれば、どこかで必ず手に入ろう。度々たのみます。
ではまた。」
 
 この手紙を発信したのは、釘本 久春(くぎもと ひさはる)さんという方で、
1908(明治41)〜1968(昭和43)  日本語教育者・文部省官僚。
中島敦とは旧制一高時代からの友人だそうです。
 受け取って保存していたのは、作家の中島敦さんで、かれの全集に収録されて
いたものです。この全集には、中島敦が発信したものと、中島の手もとに残されて
いた書簡も収録されています。これがすごい。