このところ手にしている本には、ユダヤ人に関するものが多くなって
いるようです。次のようなものであります。
・アーレントとハイデガー みすず
・占領下パリの思想家たち 平凡社ライブラリー
・暗い時代の人々 ちくま学芸文庫
・啓蒙の弁証法 岩波文庫
・私家版 ユダヤ文化論 文春新書
・先生とわたし 新潮
本日は、「アーレントとハイデガー」を読んでおりました。
ハンナ・アーレントはヤスパースとハイデッガーに教えを受けるという
とんでもない才女であります。彼女は18歳でハイデガーの教えを受ける
ことになったのですが、同時に愛人にもなったということです。
どうもハイデッガーは女癖がよろしくなかったようで、いつも数人の女性が、
奥さんのほかにいたようです。
この本では、次のように書かれています。
「ハイデガーは、少なくとも表面では、妻とかっての愛人が仲のいい友達に
なるのを望んでいた。だが、ほんとうのところは、むしろ女ふたりの注目の
対象となるのを楽しんでいたように思われる。いずれにしてもアーレントは
ハイデガーの人生のかけがいのない女は自分だと信じるのを決してやめなかった。」
ハイデガー夫人は反ユダヤ主義者でして、そのせいか、それとも名誉欲のせいか、
ハイデガーは熱心なナチス党員となり、大学の総長にまで登りつめるのでした。
そうして、自分の師匠であるフッサールを追い込むことになるのでありました。
「アーレントはのちには、ハイデガーがフッサールの死期を早めたのだと非難して、
彼を潜在的殺人者とまで呼ぶようになる。しかし、その時期はまだまださきのこと
だし、しかも彼女はこの発言を結局は撤回してしまう。」
ここまできて、四方田犬彦「先生とわたし」の238ページにたどり着きました。
この作品を読んできて、これは「アーレントとハイデガー」を、早くに読まなくて
はと思ったのは、フッサールとハイデガー、ヤスパース、アーレントと豪華な顔ぶれ
による先生とわたしの物語が展開されるからでした。
そして、この「アーレントとハイデガー」には、このようなくだりもあるのでした。
「アーレントはハイデガーとの断ち切れぬ絆をまたしても見せつけるかのように、
ヤスパースの非難を認めようとしなかった。というよりその非難がハイデガー批判者
たちへの彼女の憤慨をいっそうかきたてて、またも彼の弁護へと走らせたのである。
・・・
半ユダヤ人で私のしるもっとも不快な人間の一人であるテオドール・アドルノや
マックス・ホルクハイマーや、彼らにそそのかされている連中は、ハイデガーを破滅
されることなぞ平気でやってのける手合いなのだ、という。彼らは何年もの間、
ドイツ内でだれであれ彼らに反対する者にたいしてはすべて、反ユダヤ主義の罪を
着せるか、着せると脅すかしてきたのです。」
自らもユダヤ人であるアーレントがアドルノとホクルハイマーについてこういって
いるのですよ。「啓蒙の弁証法」は、アーレントにもっとも不快な人間の一人といわ
れている二人による本であります。ことハイデガーに関したことになると、ずいぶんと
アーレントは点数が甘くなるというのが、いかにも「先生とわたし」であります。
この先生というのは、同時に愛人でもあったのですから、その複雑なことといったら
です。
四方田は、次のように書いています。
「ナチスとの醜聞が禍し、呪われた哲学者と見なされかけていたハイデガーが。
戦後に名誉挽回し、世界的に評価されることになった功績は、ひとえにアーレントに
帰せられるべきかもしれない。彼女は英語圏においてハイデガーの翻訳と紹介を組織
し、文字通り不眠不休の代理人として行動した。彼女がユダヤ系であり、しかも
全体主義の起源の著者であったことは、大きな意味をもっていた。・・・
彼らはまさに中世のアベラールとエロイーズの物語を生きていたのである。
ハイデガーはリルケを真似た詩をアーレントに書き送り、そこにはかっての愛の
追想が甘やかに綴られている。」
四方田はこれに続いて、ジョージ・スタイナーのハイデガー評にふれていくのですが、
スタイナーのニューヨークでの生活については、「占領下パリの思想家たち」にあるの
でした。
山口昌男がいうところの「20世紀後半の知的起源」(本の神話学)でありますが、
戦争の時代が生んだ皮肉な現象であります。
平和な時代は、「鳩時計」しか生まなかったといっているのは「第三の男」でしょう
か。小生は花田清輝の「復興期の精神」で見たように思うのですが。