ひさしぶりで片山敏彦さん

 長谷川潾二郎愛好家であるりんこさんのnoteを拝見していましたら、長谷川

潾二郎さんが片山敏彦さんに宛てた書簡が公開されていました。

詳しくは、りんこさんのnoteをご覧くださいですが、この時代に片山敏彦さんを

話題にされるのは、りんこさんと若松英輔さんくらいでありまして、貴重であり

ますね。

note.com 長谷川潾二郎愛好家のりんこさんは、昨年9月に自力でギャラリーを借り

て長谷川潾二郎作品の展示を主催したというすごい方でありまして、その熱

量のおかげで、長谷川潾二郎さんのご家族の信頼を得て、貴重な資料の公

開を許されています。

 当方のような長谷川四郎ファンにとっては、長谷川潾二郎さんのところか

らでてくる資料は、とても貴重であります。

 函館出身の長谷川兄弟は四男一女からなりますが、長男である海太郎

さん(林不忘ほか)は若くして亡くなりましたので、長谷川潾二郎さんが昔風

に言いますと戸主のような役割を担っていました。

 このあたりについては、福島紀幸さんの「ぼくの伯父さん長谷川四郎物語」

に詳しくでていまして、次のように書かれています。

「1930年、父が東京に家を新築した。アトリエ付きの家だった。これは、画家

をめざしている次男・潾二郎のためであり、将来、父自身が住むためのもの

だった。四郎はこの新築の家に潾二郎と一緒に住んだ。」

 結局、この荻窪の家で長谷川兄弟の両親は亡くなり、四郎さんがシベリア

から復員して身を寄せたのも荻窪の家でした。

 一方の片山敏彦さんは法政大学で教鞭をとっていたのですが、その時代に

教えを受けたのが長谷川四郎さんでありました。もとは民俗学を学ぶために

立教大学史学科に入ったのですが、ここは方向性が合わないということで、

片山敏彦さんのところで学ぼうと転学することにしたのだそうです。

 福島さんの本から、また引用です。

「1932年の秋、一面識もない片山敏彦をいきなり訪ねた。そして、翌年4月、

片山が教えていた法政大学文学部のドイツ文学科に入学した。

 独文科には対照的な二人の先生がいた。一人は正真正銘の語学の天才

関口存男先生、もう一人は詩人の片山敏彦先生。」

 長谷川四郎さんは、詩人の先生の教えをこうために、法政大学に移ったこ

とになります。

 それじゃ、りんこさんのnoteの手紙にあるような長谷川潾二郎さんと片山敏

彦さんのつながりはどうしてできたのかなですね。

潾二郎さんは小説を書いていますが、詩なども書いていたのが、この書簡から

わかります。片山さんも荻窪にお住まいでありましたので、四郎さんと同行し

て、片山宅を訪問していたのだろうな思われます。

 福島紀幸さんの「長谷川四郎物語」で、片山敏彦さんと長谷川潾二郎さん

が一緒に言及される箇所が一つあって、それは満州で暮らしていた四郎さん

の訳詩集を出版するために訳稿を日本に送って、それを受け取ったのは片山

さんか、潾二郎さんのどちらかで、お二人がこれの出版にむけて動いていた

というところでした。結局は刊行に至らなかったのですが、それは1941年の

こととあります。

 noteにある潾二郎さんの片山敏彦さんへの書簡は1948年ですから、7年後

のことになりです。

 長谷川潾二郎さんの「静かな奇譚」には、詩稿は掲載されていたかな。