留守中に届いていた

 何日か家を留守にしますと、戻ってきたらやることが溜まっていることで、

それがために、不在中の新聞とか郵便物が積まれることになりです。

戻って4日も経ちましたら、新聞くらいは目を通していてもいいと思うので

すが、いまだできずです。こりゃいかん。

 それは庭仕事が忙しいからでもありまして、新聞は積んでおいても消えて

しまうことはありませんが、庭のほうは、日々やることをこなさなくては悔いを

残すことになりますので、そちらを優先であります。

 ということで、届いてからすこし日がたってから、「本の雑誌」7月号を見る

ことになりです。先月も話題にしておりますが、このところ楽しみにしているの

は、どちらも当方よりも年長の書き手による連載であります。

 一つは、この雑誌で最年長の寄稿者(?)である津野海太郎さんの「続・

百歳までの読書術」となります。

この号の津野さんのタイトルは、「ツノ出せ、オノ出せ、オサダ出せ」というもの

でありまして、これは「津野、小野、長田」ということで、晶文社初期の編集者

の名前を連ねたものになりです。

「この章で私は小野二郎を中心に初期の晶文社について書くつもりだったの

です。」とありますことからもわかりますが、初期の晶文社のことが話題となり

ます。

 これに途中で、もう津野さんが刺激を受けた編集者として未来社の松本昌

次さんに言及されます。未来社の本は、最近は購入したことがありませんが、

松本さんは編集長でありまして、多くの刺激的な本をだして、退社後は影書房

を起こされました。

 未来社時代に手掛けた著者の選集などを影書房から出していて、次のよう

なものが記憶に残っています。

 どこの会社もそうでありましょうが、立ち上げの頃は社員に給料を支払うのも

たいへんでありまして、まして出版社はでありますね。

初期の晶文社は、他にしごとを抱えている人たちが(そちらの給料だけでは食え

ないようなところに勤務してる)、バイトの掛け持ちのような感じで集まって来たと

あります。

 津野さんは新日本文学会、小野さんは晶文社のみ、長田弘さんは美術出版社

編集室とあります。

 新日本文学会での編集者生活について、津野さんは、次のように書いています。

「私が編集者になったのは、はるか1960年代のはじめ、ようやく戦後の経済成長

がはじまったばかりの時期でしたからね。しかも、はじめに就職したのが新日本文

学会(左翼系の文学運動集団)と晶文社(発足して三年目の極小出版社)だった

ので、いくら執筆者を支えたいと思っても、経済的に不可能。なにしろ『新日本文学

は、原稿料ゼロだし、晶文社も60年代後半に植草甚一さんや小林信彦さんの本が

売れはじめるまでは、とりあえず原稿料の二分の一、あとは売れた分だけを支払う

という、まことに侘しい状態を余儀なくされていたのですから。

 もちろん、こちらの側も新日本文学会では通常の給料の半分以下。晶文社でも

それよりちょっと上という状態だった。」

 これでは、家族を抱えての生活は成り立たないことであります。