芸能人ではなくても

 その昔に「芸能人は歯が命」というコマーシャルがありましたです。別に

芸能人でなくとも、歯は大事であるなとつくづく思うのは還暦を過ぎてからで

ありましょうか。

 当方もご多分にもれずでありまして、このところは年を重ねるたびに口の中

が寂しくなることでありまして、今年に入ってからも数ヶ月前から歯が浮いて

きていて、硬いものを噛むことが難しくなっておりました。これは時間の問題

であるかと思う日々が続いていました。

 先日に瀬戸内寂聴さんの「奇縁まんだら 続の2」を手にしていましたら、

次のようなくだりを目にすることにです。

「あるパーティの席で、人ごみの中に久世光彦さんによく似た老人を見かけた。

久世さんのお父さんとか、伯父さんなのかなと首をかしげていたら、人々の間

を縫ってその人がこちらめがけて近づき、笑いかけた。

 『誰かわからなかったんだろ』」

 このように答えたのは、もちろん久世さんであったのですが、はてさて、どう

してわからなかったというと、それは「笑う久世さんの口の中に前歯がなかった」

からでありますね。

 それにしてもであります。このあと、瀬戸内さんは久世さんがどうして前歯を

欠いたままにして暮らしていたのかということを推測したりするのですが、久世

さんが亡くなったのは70歳でありましたので、60代後半には前歯を欠いてい

たのかと、すこしうれしくなることにです。

 先日の朝食の時に、食パンに入れてあるくるみをかじりましたら、いけなく

なっている歯にあたりまして、さらにひどいことになってしまいました。

そして今朝に起きてみましたら、その歯はさらにぐらぐらで、これはどうにも

気になってしょうがなしです。そんなわけで、朝食まえに自分でその歯をやっつ

けてしまうことにです。すこしはミシッという音はしましたが、ほとんど痛みを

覚えることもなしに抜け落ちてしまいました。これはめでたしなのでしょうか。

 そうしてから土曜ではありましたが、かかりつけの歯科医へといって処置を

してもらったのですが、ちょっと待ち時間があって、その時ルシアン・ベルリン

の文庫本に収録の短編を読むことにです。

 なにも考えずに持参したのですが、これが歯医者ネタの小説にあたりました。

「ドクターH.A.モイニハン」という作品です。

この小説では歯医者である主人公の祖父が、自分で作った入れ歯を装着するた

めに、残っている歯を全部、自分で抜くのでありますが、このシーンが壮絶で

あります。

「祖父はわたしの頭ごしにウィスキーの瓶をつかみ、らっぱ飲みし、べつの道

具をトレイから取った。そして残りの下の歯を鏡なしで抜きはじめた。木の根を

めりめり裂くような音だった。」

 この祖父は、いくつくらいなのでしょうね。自分が作った入れ歯に絶対の自

信があるために、問題のない歯を抜いてしまうのですから、もったいないこと

であります。