民族の本音 2

 「民族の本音」というような表現は、丸谷才一さんらしくないのですが、民族とい
うような言葉のくくりからはるかに遠いような文学者が、これに続いて登場するとこ
ろがみそでありましょうか。白秋、秋声、谷崎、そして古井由吉であります。
 谷崎潤一郎の「金色の死」は、谷崎が存命中は全集に収録されることがなかったと
いう作品で、それだけにその昔はなかなか目にすることができない作品であったよう
です。いまはいくつかの文庫に収録されているようですが(他に確認できたのは中公
文庫でありました。)、最初に文庫となったのは、講談社文芸文庫であったのでしょ
うか。
 今年の8月に丸谷さんの「星のあひびき」集英社文庫版で、谷崎の「金色の死」の
ことを知って、これをどうしたら読むことができるかなと思っていたところに、昨日
の新聞記事があって、これに背中をおされ、図書館へと行った時に「谷崎潤一郎全集」
を確認したという次第です。谷崎全集は、ほんと何回も形をかえてでていますが、
図書館に架蔵されているのは谷崎没後の「愛読愛蔵版」全30巻で、さすがにこの全集
には、第2巻に「金色の死」が収録されていました。
 それにしても、どうして谷崎は単行本に収録した「金色の死」を、存命中に刊行し
た全集から外したのでありましょう。どこかを調べてみたら、これについての答えが
あるのかもしれませんが、いまのところはわかっていません。
 「愛読愛蔵版」の月報には河野多恵子さんによる「谷崎文学の愉しみ」という文章
が連載されていますが、それを見ても「金色の死」が、存命中の全集からのぞかれて
いたということへの言及はありません。
 河野さんの文章から、この作品に関する部分を引用です。
谷崎潤一郎は、このうえなく死を怖れた作家であった。現世に在りたくてならない
作家であった。谷崎がただ一つ受け容れる気になれる死は、自分の創造のための死で
あった。誤解のないように付け加えるならば、死を用いて創造するのではなく、創造
の結果の死、創造の応えとしての死であった。・・・・『金色の死』には、谷崎の
芸術家としての願望と覚悟がくまなく表白されているのである。」
 河野さんに、ここまでいわれる作品であります。