谷崎の「吉野葛」から話はそれるのでありますが、谷崎が親しんでいたであろう語り
ものの世界についてであります。「俊徳道」という近鉄の駅名を聞いても、それから
「俊徳丸」という説教節を思い浮かべる人は、ほとんどいないことでしょう。
川村二郎さんが「語り物の宇宙」で紹介しているのは、次の文章であります。
「世の中は推し移って、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなった。子どもの頃
は、道頓堀の芝居で、年に二三度は必見かけたのが、小栗物の絵看板であった。
ところの若い衆の祭文と言へば、きまって『照手車引き近江八景』の段がかたられた
ものである。」
このように書いていますのは折口信夫で、「餓鬼阿弥蘇生譚」という文章の書き出し
だそうです。
これを紹介している川村さんは、この文章が発表されたのは大正十五年一月で、
「折口が『子どもの頃』というと、大体明治二十年代の後半にあたる。」といっていま
す。今から130年も前のことになります。この時代には「小栗判官」というのは人気芝居
であったのですね。それが、90年ほど前にはあまり上演されることがなくなったといっ
ているわけです。
川村さんが芝居を見始めたのは、昭和三十年代のはじめころとありますので、今から
60年ほど前になりますが、小芝居の世界からも小栗物には、ついぞめぐりあわなかった
とありました。
そういえば、当方が子どもころ(それこそ昭和三十年代のはじめ)には、田舎で
あっても秋のお祭りには旅芝居の一座がかかったものですが、そうした一座の演目には
どういうものがあったのでしょう。見た記憶はあるのですが、どういう演目をしていた
のか、まるでわかっていません。