追悼 松山俊太郎さん 6

 加藤郁乎さんの「後方見聞録」学研M文庫の表紙写真にあるスナップで、右側中段の
男性二人がうつっているのが見られますが、その右の方が松山さんとなります。
 加藤郁乎さんは、松山さんのポートレートを描く前に、松山さんの文章を引用して
いるのですが、それに続いて、次のように記しています。
「以上、長々と引用したが、これは松山俊太郎が『悪の華 初版・再版』と題して、
『本の手帖』誌(昭和三十七年五月号『わが一本』特集)に綴った書き出しの部分で
ある。できれば、全文を引きたいような真の意味での格調高い名文で、松山俊太郎と
いう印度学徒の声名を知ったのはこれがはじめてのように思い。『この本の初版は
世界でも稀本に属し、おそらくわが国で唯一本であろう。まさに垂涎に値する』と、
いまは亡き神保町のバルザック森谷均老が編集後記に記しているが、こんな凄い本を
愛蔵している男とはどんな人物だろうかと想像していた。松山俊太郎と飲み歩くよう
になってから八年ほど経った昭和四十六年の秋、まだ三田に住んでいた頃の彼の家を
はじめて訪ねた折、二階の書斎でパンツ一枚の主人からこのボードレール本を見せて
貰った。」
 松山俊太郎さんが「悪の華」初版を入手したのは、昭和二十六年のことであります
ので、そのとき若干二十二歳であります。やっと大学生になったばかりというのです
から、どのようにしてその資金を捻出したのでありましょう。石堂さんにいわせると
架蔵していた他の稀覯本を売却してとありますが、売却してそれなりの値段になる
コレクションを持っていたことだけでも不思議であります。
 三十七年の文章においても、自らのことを「一介のサンスクリット愛好者にすぎず」
といっているのですから、とても定職についているようには見えずであります。
それじゃ1960年代から70年代にかけて、何をしていたかというと加藤さんにいわせると
「多く読んで少なく記す市中の大隠、古書店のあいだにその名を知られた無冠の大儒」
となります。
「後方見聞録」文庫版には、渡辺一考さんによる解説がありますが、そこには加藤
さんが取り上げた人の紹介があります。松山さんについては、次のようにあります。
「松山俊太郎(1930〜 ) 東京生まれ。『インドを語る』の著書を持つインド哲学
者にして、梵文学者。蔵書家としても識られ、社会思想社刊『小栗虫太郎傑作選』
全五巻に於ける本文校定は労作を超え、偏執の域にまで達した。不朽にして必読の
文献。もっか『黒死館殺人事件』の初版本と原稿との照合に格闘中。」
 社会思想社の現代教養文庫にはいっている「小栗虫太郎傑作選」全五巻の編者が
松山さんでありましたか。これの刊行は昭和51年からですが、本文校定が偏執的な
ものということは、校定には、ずっと前から取り組まれていたということでしょう。
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