小樽にゆかりの 3

 小樽にゆかりの詩人 瀧口修造さんは、大学時代をともにした佐藤朔さん(もちろん、
慶應の仏文教授で、ある時期は慶應の塾長)にいわせると「行方不明の詩人」となりま
す。ひとつには、詩作品を若い時期に発表しても、それをまとめて刊行することがなく
て、ほとんど幻の詩人となっていたことによります。
 もう一つは、文字通りのことでありますが、昨日に引用した佐藤朔さんの文章の続き
によって紹介をしまみましょう。
「学生時代の瀧口には、一、二年教室に顔を見せない時期があり、久しぶりで学校にでて
きたとき、どうしていたのかと聞くと、しばらく北海道にいたというだけで、その理由も
暮し方も何も話そうともしなかったし、こちらから聞くこともしなかった。しばらく行方
不明でいるということが、瀧口らしいと思えたからである。」
 ここに「しばらく北海道にいた」というのは、「小樽で暮らしてた」というのが本当の
ところであります。今回の「瀧口修造シュルレアリスム展」のちらしには、「未だ詳ら
かではない瀧口の小樽時代を検証し、そこからシュルレアリストとしての瀧口の生涯と
業績の俯瞰を試みます」とありますから、小樽のスタッフがこの巡回展にかける意気込み
が伝わってくることです。
 瀧口さんは、「本の手帖」(いまはなき昭森社からでていた雑誌)の瀧口修造特集号
のために、自筆年譜を作成し発表しています。(このあとの年譜は、すべてこれが基礎
となっているはずです。)
 シュルレアリストの年譜はどうあるべきかでありますが、「本の手帖」には、以下の
ような後記がありました。
「この年譜製作は、私の病後のためもあり、平素の整理不足が手伝い協力に万全を期し
難かったが、主に鶴岡善久氏の非常な努力によってここまで纏めることができた。
重要な脱落や誤記があれば私の責任であり、今後の訂正を期し、大方のご協力をお願い
したい。なお、今春、都留大学(ママ)を卒業された下沢直幸氏が卒論のために作られた
入念な「瀧口修造年譜」からも教えられるところが少なくなかった。」
 この後記は1969年7月頃に書かれたようですが、これが最初の仕切りとなります。
これが作成されたのは、「本の手帖」森谷均氏の遺志にこたえるためでありました。
「本の手帖」年譜の最後は69年となりますが、そのくだりからの引用です。
「暮れから疲労を感じていたが、二月三日未明四時頃、読書新聞『日録』執筆中に脳血栓
で倒れ、一時左半身麻痺に陥る。近くの病院に救急車で運ばれるが、二週間ほどで退院、
六月中旬現在も通院加療中。退院直後、本誌の特集のことを知らされ驚き惑う暇もなく
森谷均氏は他界の人となる。その遺志にそうべく私も病後を押してここまで書いたが、
さながら泥を吐く思い」 
 昭森社 森谷さんは、それこそ伝説の人でありまして、その方がはじめた「本の手帖」
の終刊号となったのが、「瀧口修造特集号」でありました。