足立巻一さんの本を手にしていましたら、足立さんは漢学者である祖父に育て
られたことを思いだすことです。このことが一番わかるのは足立さんの「虹滅記」
であるのですが、その本はいまだに見つかっていません。
江戸時代までは漢学といえば上級武士にとっては必須の学問でありましたので、
それを目指す子弟たちは、藩校のようなところで漢学を学んだのでありまして、
そうしたことからも漢学を教える先生も、それなりのステイタスであったと思われ
ます。
それが一転したのは維新後でありまして、その時代には漢学を学ぼうという人は
激減して、当然のこと生活は困窮することになったのでしょう。
足立さんがこのような家庭で育ったのですが、たぶん同じような環境で育ったと
思われる人に中島敦さんがいて、中島さんは明治42(1909)年生まれ、足立さんは
大正2(1913)年生まれですので、世代的には近いのでありました。
中島さんには、狷介な漢学者のおじさんについて書いた「斗南先生」というのが
ありますが、足立さんは育ての親となった漢学者の祖父とのことを「虹滅記」とし
て残しています。
足立さんの「人の世やちまた」には、それまでの人生を回顧した「光陰抄」とい
う文章がありまして、そこに祖父とのことが簡単に描かれています。
「私は生後三か月で父と死別したので、その顔を全然知らない。また、母はまもな
くさいこんしたのは、幼児の記憶にはほとんどない。物心がつくと、東京の下町で
祖父・祖母に育てられていた。
祖父は敬亭と号する偏奇の漢学者だった。ひどいどもりで、しかも金勘定ができ
ず、少なからぬ家産を食いつぶした。それでも長男の教育には力を入れ、貧窮のな
かに京都帝大を卒業させた。・・・
何人かの門弟に漢学・漢詩を教えてほそぼそと生計をたて、ひたすら孫を育てた。」
この祖父が亡くなったのは大正十(1921)年のことで、数え年で65歳だったそう
です。
この時代においても、すっかり廃れてしまった学問に取り組んでいる狷介な学者
さんというのがいるのでありましょう。その方々は、昔はよかったと思っている
のか、それとも好きなことをやっていたら、食えないのは我慢だと思っているのか
です。