本日の本 6

 昨日に記した阪田寛夫さんが芥川賞を受けた夜における庄野潤三一家との電話の
やりとりのことは、庄野さんの「文学交友録」にあったものでした。(拙ブログで
たしかに引用をしておりますが、細部をほとんど忘れていました。)
 昨日は、庄野さんから電話をしたように記しておりますが、本当は受賞したとの
報告の電話を阪田さんから庄野さんにしたものであります。シャイな阪田さんが
はれがましい受賞の報告を、自らするというのも、相手が庄野さんであるからで
しょうか。
 シャイで、気配りの阪田さんは、どういうわけかあとがきに編集者への謝辞の
ことばを記していないようです。ぱらぱらと、手近にあった数冊のあとがきを
見てみたのですが、最初のほうの作品集には編集者のことに言及していません。
これは初出時の担当編集者と、単行本の時の編集者が異なっていて、そのすべての
名前を列挙できないからかなと思ってしまいます。
 高橋一清さんは、次のように書いています。
「当時、私の集める作品は、ほとんど萬玉邦夫君が担当して本にした。『土の器』
も『背教』も『花陵』も。これらは今でも新鮮な造本である。
 私自身も出版部で働いた時に音楽をテーマにした小説を集めた『戦友 歌につな
がる十の短編』を作った。」
 高橋一清さんが自分で依頼した文章を、自分で単行本にしたのは、ここにある
「戦友 歌につながる十の短編」ということがわかります。
 今度は、この本の阪田さんによるあとがきからの引用であります。
文藝春秋出版部の高橋一清氏とは二十年来のお付合いである。当初『文学界』編集
部におられて、私の短編が文芸誌に載りだしてたぶん第二作目からお世話になって
いる。はじめの十年間の作品から選んだ五篇が『土の器』という短編集になったのは、
昭和五十年だったが、こんどは主にそれ以後十年間のものから選んだ。
『土の器』は一族の顔合わせのような本になったが、今回は歌につながるものしよう
というのが、高橋さんの狙いであった。その気で選んでみると、音楽につながらない
作品のほうが少ないので驚いた。」
 このあとがきの日付は昭和六十一年九月とあります。編集者 高橋さんと阪田
さんの関わりというのは、うらやましいものです。