新聞広告から

 本日の新聞朝刊一面下のさんやつに講談社文芸文庫の新刊案内がありです。
 以前に5月に刊行予定とあったのですが、いよいよ店頭にならぶようです。講談社
芸文庫は、行きつけのまちの本屋さんに入荷するはずですから、これは手にとって見る
ことができるはずです。

 この広告には、次のようにありです。
「後輩であり庄野文学最大の理解者となった著者。長年の交友が実った心温まる作家論」
なんといっても文芸文庫は値段が高いので、これを購入するかどうかは、これにどのよ
うな解説ほかの付録がついているかですね。
 それにしても阪田寛夫さんの文芸文庫の二冊目が「庄野潤三ノート」になるとは思い
ませんでしたね。一冊目が阪田さんの「名作集」という感じの編集でありましたので、
この次はないのかなと思っておりました。
 「庄野潤三ノート」は、元は講談社からでた「庄野潤三全集」の巻末につけられた文章
に加筆されたものですが、当時小説が書けず苦労していた阪田さんに、庄野さんが全集に
添える文章を依頼したものです。
 この「庄野潤三ノート」元版(冬樹社刊)のあとがきから引用です。
「読者としては年季が入っているが、庄野さんから最初全集の仕事を聞いた時はちょっと
尻ごみをした。私は批評や解釈が不得意だからだ。しかしそのまま電話で話をしているう
ちに、講談社の出版部の人が「庄野潤三ノート」というような形にしてはどうかと言って
いると聞いて、それなら書けそうな気がしてきた。
 『ノート』なら首尾一貫した理論はなくてもいいだろう。作品が書かれた折々に実際に
あった事柄を書きつけて、そこへ自分の記憶をすこし書き添えて行けばいい。」
 伊藤英治さんが作成した阪田さんの年譜によりますと、1973年6月に「庄野潤三ノート」
の執筆が始まり、その翌月の7月19日に阪田さんの母上はお亡くなりになったとのことで
す。
 「庄野潤三ノート」元版(冬樹社刊)のあとがきの最後のくだりは、母親が亡くなった
ことが書かれていました。
「『ザボンの花』が好きだった私の母が、全集のノートを書いている最中に死んだが、母
に死なれたおかげで判ったこともあった。庄野潤三全集を(ノートも含めて)通読した人
から、庄野さんの方法で庄野さんの作品を描いていますねと言われた。そう言われてあり
がたい気持ちがした。」
 小説を書くことが出来ずに苦しんでいた阪田さんは、「庄野潤三ノート」を書き綴りな
がら、ちょうどその頃に亡くなった母上のことを、題材に「土の器」を小説にまとめ、
それでもって、芥川賞を受けることとなったわけです。
 そういうこと意味からも、この「庄野潤三ノート」というのは阪田さんにとって忘れが
たい著作となったようです。