「裸の大将一代記」に小沢信男さんが顔をだすところを、もうすこしです。
昭和20年東京大空襲の後の話です。
「この三日間に、清は焼死体を、どうやら見すぎた。『それを時々思い出すので、死人を
思い出すと気持ちが悪くなってきます。・・・夜の真っ暗な所へ行くと死人のお化けが
出そうな気持ちがします。』
わかるなぁ。彼は夜中に便所に行きづらくなったのだ。じつは私もそうであった。私が
焼け跡見物したのは三月十二日の月曜日。山下清が千住ー浅草を歩いた日とたぶん同日で
ある。日曜休みの翌朝、明電舎へ出勤した私たちは、新聞やラジオは伝えない罹災の噂に
もちきった。隅田川が湯になって、死体が佃煮のようで、一つ引き上げると下から浮いて
くるとか。そんな惨状は見たくはないが、千載一遇というのは今だ。中学生は三時に終業
だったから、工場が引けたその足で友人数人と下町へむかった。神田駅におりると、
プラットホームの西側は焼け残った町がそっくり無事なのに、東はいきなり足許から地平
線まで真っ平だった。その焼け野原を歩いて、いろいろなものを見てしまった。
山下清は電車の骸骨を見たが、私は消防自動車の丸焼けを見た。山下清は煙突が残って
いるのが印象に焼き付いたが、私は金庫があちらこちらに立っているのが、あれた墓場の
墓石を見るようだった。」
小沢さんが、「焼死者たちを束でみてしまったショック」と同じものを山下清もかか
えこんだのだといっています。
「こんなショックを癒すのにも、けっこう何年もかかる。」
焼け跡見物記を、山下清は昭和二十四年一月に学園にもどってから書いて、あわせて
『東京焼けたとこ』という貼り絵作品を制作したのだそうです。
この絵についての小沢さんの感想です。
「この絵を、私は、見飽きない。東京大空襲を描いた絵も数あるだろうが、これぞ他に
遜色のない傑作と信じる。・・
山下清は、このイメージを丸四年抱きかかえていた。私が私の焼け跡見物記を『徽章と
靴ー東京落日譜』と題して、記録小説に仕立てたのは十三年後だった。」
小沢さんと山下清が一番近づくのは、この三月十二日であったようです。