小沢信男著作 216

小沢信男さんは、「裸の大将一代記」のことを「それにしてもでしゃばりすぎて、なかば
自分史になってしまったような」といっています。この本を読むのに、山下清さんのこと
をそっちのけにして、小沢さんの自分史的なところばかりを拾い上げて読み返してみよう
かと思っています。「でしゃばりすぎて」とはいうものの、そんなにそんなに姿をあら
わすわけではありません。
 たとえば文庫本の19から20ページには、次のようにあります。
「私事ながら、わたくし小沢信男山下清に五年遅れて昭和二年に東京市芝区佐久間町
生まれ、ほどなく京橋区銀座の隅の西八丁目に移った。電車道のむかいに松の湯という
銭湯があって、三日ごとぐらいに通い、小学三年性までは母と一緒に女湯にも入った。
洗い場で桶にまず湯を注ぎ、熱ければ水でうめる。逆にすると、それは湯灌の作法だと
叱られた。
清とおなじ経験をした。当時は日本中の子供らがこうして作法をおぼえたのだろう。・・
清の場合は十日か半月に一度(の入浴)なら、入浴の楽しみは私より数倍は強かったに
ちがいない。」
 お風呂の入り方だけでなく、五歳の違いはあっても、山下清小沢信男のこども時代は
同じ「街の子」として、共通する体験がいろいろとあったようです。
小遣いはともに毎日一銭で、山下少年はそれを持ってぶんぼう具屋で「一銭花火」を
買い、小沢少年は、毎日、それで紙芝居を見たのだそうです。
 次は、52ページに現れます。
「このとき私は、地元の銀座数寄屋橋際の泰明小学校の六年生だった。表通りは、とり
わけ尾張町の四つ辻あたりは、よそから銀ブラにくるお客様用の路につき、青樹社
所在も知りはしなかったが、噂はほぼリアルタイムで耳にとどいた。馬鹿の天才少年の
出現は、五歳年下の小学生にもただごとでなかった。」
 青樹社というのは、山下清作品がはじめて話題となった展覧会が開催された会場で、
「銀座四丁目四番地 服部時計店のならび、いま和光別館のところにあった」ギャラ
リーとのことです。
 このように山下清さんと小沢信男さんは、同じ空気を吸っているのですが、結局は
出会うことなく終わったとのことです。