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 能島廉さんの不思議なのは、ある時期まではきちんと仕事ができていたことで
ありますね。1952(昭和27)年 東大を卒業して、小学館に入社したとあります。
その当時の出版社で小学館というのはどうであったのでしょう。編集者としては、
中央公論社とか文藝春秋などのほうが難しかったのでしょうか。そういえば、中央
公論社も文芸春秋社も新社となっていますが、52年はまだ新社とはなっていません
でしょう。
 1957(昭和32)年、「中学一年生」の編集長になったと年譜にはあります。とり
あえず28歳で編集長でありますよ。まだ少年週刊誌が刊行されていなくて、月刊誌
の時代です。それなりのポストですよね。
阪田寛夫さん作成の年譜には「中学1年生の編集長になった。仕事の上では最も切れ
味を示した時期であるが、競輪の荒廃した勝負の世界に心の置き場所を求め始めた
のもこの頃だ。つねに予想屋のごとき風態でおし通し、社内で『三汚い』の随一に
あげられる。」
 曽野綾子さんが、追悼文を記しています。曽野さんは、能島さんを短大の教師に
推薦するのですが、能島さんの人物に対する評価は高いのでありました。
「野島さんは柔和な一面を持っていた。三浦朱門が雑誌の創始者の一人であるという
立場を利用して独断的な意見を述べ、同人の中に反対はができるような場合もやん
わりと三浦をとりなしたり、時には解説を加えてグループをまとめて行く徳があった。」

 能島さんが作品「競輪必勝法」の中で自分のことは、次のように書いています。
「うちでは、最近の私をみていないから、東大出らしく前途洋々、その気になれば、
いつでも結婚できると思っているが、実は、私は会社で、B級社員であったのである。
競輪選手は、B級に落ちても、ある程度の素質があり、練習して一応の戦歴を上げ
さえすれば、A級にカムバックできるけれども、会社勤めでは、一度B級の烙印をおさ
れると、まずA級に上がることは不可能ではないだろうか。」
 この小説を私小説と思って読みますと、能島さんは、ほとんど救いがたい人に
思えるのですが、曽野綾子さんのものを読んだりしますと、小説の中の私と作者で
ある私は、ぴったり同じではないのでありました。