疎開小説12

 山中恒さんの「ボクラ少国民」第4部「欲シガリマセン勝ツマデハ」には、次のような
アンケートが引用されています。初出は「週刊文春」昭和41(1966)年8月22号とのこと
です。この号は、「疎開学童」の特集を組んでいて、これに掲載のものです。
この本に引用されている回答は、扇千景(女優)、小林信彦(作家)、愛川欽也
(ディスク・ジョッキー)、三善晃(作曲家)、小笠原良知(俳優)、佐江衆一
(作家)、黒井千次(作家)という人たちです。(愛川欽也さんの紹介がディスク・
ジョッキーとなっているのが奇異な感じを受けますが、このころはまだ有名な人では
なかったのですね。)
 まずは愛川欽也さんの回答から見てみましょう。
巣鴨仰高国民学校4年生
 大輪寺という、上田市(長野県)のお寺の本堂に寝ました。大きなイモのかたまりの
入った雑炊。イモをもちあげると、量がへっちゃうので、イモをもちあげるたびになん
だか損した気になりましてね。ちいさいくせにしっかりしようという意識が働いて、
おふくろが迎えにきたときも、とびつきたいのをガマンして『こんにちは』と、他人
行儀の挨拶をするような子になっちゃいました。」
 続いては三善晃さん。
「杉並第5国民学校6年生
 長野県別所温泉に19年8月末から翌1月末まで。
週に一度許される外出のときに、農家に物乞いして歩きました。いやがられると、
こんどは盗むんです。盗んだ大根を配給の炭で焼いて食べたのを見つかって、仲間から
すごい制裁をうけました。教師もひどかった。親から送ってきた品物をネコババしたり、
脱走する生徒を川へ突き落としたり、雪のなかに縛って放り出したり・・。そうかと
おもえば、村の人によばれ、酔って帰ってヒワイなことを口走ってひっくりかえったり
していました。いま考えれば、教師も弱い人間だったのだが・・・。」
 最近まで参議院議長であった扇千景さんも回答を寄せています。
鳥取県岩美郡岩井町に一年間いました。温泉街で、宿舎の前に大きな川が流れていて、
湯気がポカポカたっていました。冬になると二階にとどくくらい雪が積もって、雪かき
したのも今では楽しい思い出です。大豆入りのごはんを『百回噛め』といわれて食べ
ました。
 イヤだったのは、温泉街で性病でも流行っていたのか、お医者さんにパンツをひきおろ
されて検診されたことです。月に一回は検診があったかしら。わたしは神戸市長田国民
学校5年生でした。」 
 引用は小林信彦さんで終わりとします。
「第1期疎開は3月10日に終わったのですが、その日に先生から『きみの家は焼けて、
お父さん、お母さんの生死は不明』といわれましてね。友達は親がひきとりにきて、
どんどんかえっていく。なんだか、トランプで自分だけがあがれないようで淋しかった
ですよ。絶対的な食料難で、肉を食ったのは半年間で二度しかありませんでした。
川のカエルを捕えて、焼いて食ったりしました。
 ぼくは日本橋千代田国民学校の6年生で、3年生の弟(泰彦)と一緒だった。3年だと
大事にされましたが、最上級生はみんなの手本になれといわれて、泣くことも許され
ませんでした。初めての集団生活のうえに、これが一カ月、二カ月とたつうちにミニ
軍隊化していく。腕力の強いやつ、それにとりいってずるく立ち回るやつが、支配して
いくんですね。疎開先の埼玉県名栗村は、食料の少ないところで、畑から野菜を盗んだり
したものですが、これはすべて支配者に供出して、分けてもらわなくてはいけないん
です。空腹もつらかったが、6年生同士のこういう人間関係のほうがぼくにはもっと
やりきれなかった。」 
 この時の小林信彦さんは34歳です。小林信彦さんはこの年に「集団疎開だけを描いた
小説『冬の神話』(講談社)」を刊行していました。小説「冬の神話」は、古本で
とても高価でありまして入手は困難でありますので、ここは「東京少年」で疎開のことを
確認することにいたしましょう。