疎開小説11

 只今様から数日前に「思えばあの頃、写真機は誰もが持っているものではありません
でした。」との書き込みをいただきました。この場合のあの頃というのは、疎開の時代
でありまして、戦時体制から敗戦にいたる頃の話しです。
 この時代には、町に写真館というのはあったでしょうが、町に写真屋というのは
なかったのです。当時写真機をもつということは自分のところで現像して、焼き付け
するということができなくていけませんでした。小生が知っている知人の写真愛好者も
コンテストむけにだす白黒写真の制作は、自宅の暗室でやっていたものですが、今は
どうなっているのでしょう。
 最近手にした「めざすはライカ」という本には、大正末期から昭和初年にかけての
大阪松屋町筋で著者の父上がやっていた写真機店の様子とその店に集うアマチュア写真
家の盛り上がりの様子が書いてあります。

「 (大阪松屋町筋にある)家の近くには、二人の兄と二人の姉が通っていた鉄筋
コンクリート製のモダンな中大江小学校があった。サンルームやプールのあるこの
小学校を作らせたのは、当時の大阪の財力であった。・・
 アマチュアの芸術写真が、大戦後(第一次)の景気とともに大いに盛り上がりを見せ
ていた時期である。大阪は日本の商都、その中心である船場はまさにこの好況に沸いて
いた。懐の温かい商家の旦那衆には、西洋の香りがたつ写真の魅力がこたえられない。
絵筆は握れなくても写真機があれば自分の絵が作れるし、過ぎていった楽しい時間や
栄光の過去をとどめられる。この写真熱を小型軽量で安価なコダック『ベス単』の登場が
一段と高めたのだった。」
 店を訪れる客については、次のように記しています。
「ピカピカのハーレーダビッドソンにまたがってやってくる若旦那や、まだまだ珍し
かった幌つきのT型フォードにのってくる旦那までいた。その車が停まると小学生だった
二人の兄は表に飛び出し、車のステップにのぼって、窓越しに見えるハンドルやペダル
類に釘付けになった。
 当時はカメラ1台売ると、しばらく食べられた時代だったが、カメラの販売だけで
なく、現像や引き延ばしもやらなくてはならない。・・夏の暗室で汗まみれになり人の
ためにやる仕事にはうんざりしたと、後年、父はぼやいていた。」
 昭和初年には、大阪には規模の大きな写真機店がつぎつぎとできてきて、この店は
昭和5(1930)年に閉店したあります。
 この本によりますと、今のキャノンとなっていく会社が、自社製カメラをだしたのは
昭和10(1935)年です。その時の値段は、国産レンズ付き200円、外国レンズ付き
285円で、ライカは580円とあります。フィルムは「さくらパンF」が1円20銭だそう
です。ライカの値段は、この時代のサラリーマンの初任給の10倍で、いまの貨幣価値に
換算すると200万円以上とありますが、となるとフィルムは1本で5千円くらいという
ことでしょうか。そのフィルムも昭和16(41)年には「どこにも売っていないんだ」と
なって、カメラを持っていてもフィルムを入手できない状況とのことで、これでは写真を
とれるはずもありません。