藤の花房が垂れる頃

vzf125762008-06-14

 庭に藤の木があって、これは植えられてから20年以上もたつというのに、
数年前まで花が咲いたのを見ることがありませんでした。この藤の木は、
花が咲かずに終わりになるのかと、不思議に思っておりました。近所の
藤が毎年必ず花をつけるのと比べるとどうしてであるのか、花にくわしく
ないので理解ができないのです。
 竹の花のように60年に一度しか咲かずに、花が咲くときは不吉なことが
おきるといういいつたえがありますが、藤の花に、そのような話は伝わって
きておりません。
 本日手にしていた「東京読書」(晶文社刊 坂崎重盛 ) には、藤の花に
ついて、たいへん印象的な文章がありました。
「 藤の花の季節になると正岡子規のことを思い出すと書いた。病の床、
 部屋の前の二十坪ほどの庭が、彼の世界であり、自然でもあった。そういう
 状況下で、人はどのように生きられるか、なにが不可能でなにが可能か、
 を晩年の子規の作品は強く訴えかけてくる。・・・・
  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの植えにとどかざりけり
  瓶にさす藤のはなぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
  
 子規がこれらの歌を作ったのは、明治34年、33歳のとき。
 このとき、子規には、すでに死が間近に迫っている。冒頭の第一週の
 「『藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり』という描写は、
 作者の視点が畳の位置と同じレベルから藤の花房をみていることを告げて
 いる。」

 小生の亡父は正岡子規のことが好きでありましたので、自宅庭にある藤が
咲くのを心待ちにしていたのでしょうが、これが咲いたのは、父がなくなる
前々年くらいのことでした。それ以来、年によって咲いたり、咲かなかったりで
ありますが、今年は、藤の花房がたくさんついてあたり年であります。
これを見ますと、正岡子規のことを好きであった亡父のことを思い出すので
ありました。