訃報は続く

 どうしたことか昨日から本日にかけて訃報がはいってきて、本日は通夜にいくこと
になり、あしたは別の告別式に出席です。どうしたことでありましょう。
 昨日に大岡信さんの文章を引用しましたが、そこに「子規の『死後』」という文章
がいちばんさわやかで楽しいものだった。」とありました。
自分の死後についての文章で、さわやかで楽しいというのは、どういうことでありま
しょうか。この文章は子規が亡くなる1年半前に発表されたものでした。
 本日は「子規の『死後』」を読んでみましょうと、亡父の書棚にある古いアルス版
「子規全集」をあたってみました。これの十巻「小説紀行小品」に、「死後」はあり
ました。さっと読んでみたのですが、これまた身体的にはひどく辛い状況のなかで
書かれたはずですが、不思議なユーモアがあります。
 長患いの子規は死を考える機会が多くあるのだが、死を感じるのには主観的と客観
的な感じの二様ありと記して、そのうち主観的のほうは甚だ恐ろしいが、客観的な方
はそれよりもよほど冷淡に自己の死というのを見るので、多少は悲しいけど、ある時
はむしろ滑稽に落ちてひとり頰笑むようなこともあると、記したあと次のように続き
ます。
「去年の夏の頃であったが、或時余は客観的に自己の死といふ事を観察した事があっ
た。先ず第一に自分が死ぬるといふとそれを棺に入れねばなるまい、死人を棺に入れ
る所は子供の内から度度見てをるがいかにも窮屈さうなもので厭な感じである。窮屈
なといふのは狭い棺に死體を入れるばかりでなく、其死體をゆるがぬやうに何かでつ
めるのが厭なのである。余が故郷などにてはこのつめ物におが屑を用ゐる。」
 こうして棺桶にはいったときの窮屈さについて書いて、続いては土葬がいいのか、
火葬はどうか、水葬というのもあるし、姥捨てもあると検討が加わります。いっその
ことミイラという手もあるなとなります。
「ミイラといふのはよく山の中の洞穴の中などで発見するやつで、人間が坐ったまま
で堅くなって死んでをるやつである。こいつは棺にも入れず葬りもしないから誠に
自由な感じがして甚だ心持ちがよいわけであるが、併し誰かに見つけられて此のミイ
ラを風の吹く処へかつぎ出すと、直ぐに崩れてしまふといふ事である。折角ミイラに
なって見た所が、すぐ崩れてしまふてはまるで方なしのつまらぬ事になってしまふ。
萬一形が崩れぬとした所で、浅草へ見世物に出されてお賽銭を貪る資本とせられては
誠に情け無い次第である。
 死後の自己に於ける客観的な観察はそれからそれといろいろ考へて見ても、どうも
これなら工合のいいといふ死にやうもないので、ならう事なら星にでもなって見たい
と思ふやうになる。」
 大岡信さんは、晩年に子規のこの文章のことを思いだしたでありましょうか。