「むしがすかない。」

 先月に手にした「本の雑誌」6月号の「坪内祐三さんの読書日記」を
みておりましたら、次のようにありました。
「ついでに北山耕平『雲のごとくリアルに』も購入し、帰宅後読む始め
たら、初期『宝島』時代を回想したこういう一節にブチっときてしまった。」
 「ついでに・・も」というところが、すっごくひっかかっていることで
ありますからして、これは最初から火花がちっていることです。この時には
北山耕平さんと、坪内さんの因縁については承知していなかったので、
このくらいで、そんなにぶちっとしなくてもと思ったのです。
 坪内さんのファンには、すぐに熱くなるとか、かってやくざものかに
襲われてぼこぼこにされたということは有名でありますが、北山さんとは、
どのような接点があったのだろうかと思っておりました。
 北山さんは49年うまれでありますので、坪内さんとは10歳ほど年長で
これはけっこう微妙な差でありますね。しかも、北山さんという人は「自分
たちの誤ちを認めることからしか癒しははじまらない。」なんてことを
いうのでありますから、こういう表現は坪内さんと相容れないだろうね。
 先月にでた「私の体を通り過ぎていった雑誌たち」新潮文庫をみていたら、
これについての回答がでているのでした。(元版は05年1月刊)

「私は『宝島』のメインの書き手の中で北山耕平が一番嫌いだった。アメリ
志向という共通点はありながら、この人のセンスはどこか説教くさく湿って
いた。つまりダサかった。少年だけど、私は、そのダサさを見逃さなかった。」
(これは高校時代の雑誌との出会いのなかにあるのでした。)

 このあとには、つぎのようなくだりもあるのでした。
「 1989年、私が『東京人』に入って三年目の春、同誌の月刊化に合わせて、
 Kという編集者が、破格の待遇で入社してきた。
  あの『ハッピーエンド通信』を編集していたK氏がくると知って、青二
 だった私は、最初、とても喜んだ。しかし、すぐに、彼がとんでもないペテン
 師だとわかった。
  翌年の秋に私が、『東京人』の編集者をやめることになる遠因は彼の入社に
 あるのだが・・・」
 
 後記
 このK氏というのは、北山耕平=小泉徹さんのことではないかと思って
6月13日には記しましたのですが、きちんと確認してから記するようにと注意が
はいりました。
 特に確認をせずでしたが、古い「ハッピーエンド通信」の数冊の編集者のところに
は、別なK氏という名前があり、Kというイニシャルだけで思いこむのは軽率で
ありました。この号にあるK氏が、のちに「東京人」に入社したひとと同じか
どうも、調べなくてはなんともいえないのでありました。 
 こちらは気楽に記していても、思いこみがひとり歩きするとご迷惑をかけることに
なるといささか反省です。
 ご指摘いただいたかたに感謝いたします。