三島事件当日の午後

 「三島事件当日の午後」という文章は、吉行淳之介さんの「懐かしい人たち」に
あるもので、懐かしい人は三島由記夫ではなくて、「大岡昇平」さんでありました。

「 大岡さんは東京育ちで、私もそうだからある程度分かるのだが、こまかく気を
 使うタチで、それが相手に通じなかったり誤解されたりすると苛立ってくる。
 私の場合は我慢してしまうが、大岡さんはそのとき怒るのだろう・・・
  筋の通らないことにたいしては、猛然と怒るという話も聞いた。しかし、
 筋の立て方が、大岡さんと私と違う形になることも有り得るわけで、なにか
 スイッチの在り場所のわからない危険な爆発物をみるような気がして、あまり
 近づきたくない。  
  私の留守中に大岡さんから電話があって『至急水島早苗の連絡先を調べて
 ほしい』ということだった。翌朝、さっそく私は彼女の住所と電話番号を
 調べて、さて大岡さんに電話をしようとしたとき、三島事件のニュースが
 はいった。
  大岡さんと三島さんは鉢の木会という会のメンバーだということは知って
 いたので、こういう際に電話をするのも不適当さと思った。しかし、私は
 へんに馬鹿正直なところがあって、『至急』という言葉にこだわった。」   

 三島事件というのは、もちろん三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に縦の会のメンバーと
乱入して、建物のバルコニーから檄を飛ばして、そのあと割腹自殺をしたときの
ことをいいます。70年11月25日のことでした。三島由紀夫の存在というのを
どういえばいいのでしょうね。まったく雰囲気は違うのですが、村上春樹のような
存在であったのでしょうか。村上さんは、ほとんど群れることがないでしょうし、
メディアに露出することもないのですが、そこんところは違います。
シャイですがめだちがりで、自己顕示欲が強いようにみせていたのが三島由紀夫
いう存在でした。
 そういう文学ヒーローが、天皇主義の立場から自衛隊員に革命を訴えるのです
から世間は驚きました。以前から三島は「盾の会」というのを結成して、ミニ軍隊の
ような活動をしていたのですが、それはあくまでも虚構のごっこで終わるのだと
思ったら、実行したことに声を失ったのでした。
 自衛隊からのライブ映像は、全国に放送されて、劇場型の事件の先駆けとなり
ました。
 小生は、この日に学生バイトで家電販売店にいっていたのですが、店の人が
お客さんのところにテレビの調子を見るので、といわれて同行したのですが、
そのいったさきで、今、三島が自衛隊に乱入したということを聞かされたのでした。
テレビの調子を見に行ったのですから、番組を見ていたとしてもいっこうにお咎め
受けることはなかったのでした。
 亡くなったその朝に、遺作となった作品の最終回をわたしたということも含めて、
三島の死はどこまでも計算されていたのでした。