本日の午前はトレーニングでありますが、家人からの要請で足の確保の
必要があって、一時間ほど早くに外出することになりました。トレーニングは
ほぼ90分でありましたが、終わったら時間が早いことです。
戻ってシャワーを浴びてから、洗濯機をまわして、本日の読書です。
先日にブックオフへと立ち寄ったときに、笙野頼子さんの古い文庫本を見つけ
てこれを購入しました。平成9年8月刊の新潮文庫でありますが、これの表題
作を読んでみることにです。(アマゾンリンクは元版のようですが、当方が確保
したのは文庫です。)
この作品は、河出文庫の「笙野頼子三冠小説集」にも収録されていて、その
文庫も確保しているのですが、いまだ読んでおりませんでした。これを機に読ま
なくてはで、すこし読みにくい新潮文庫を開くことにです。(このところ、古い文庫
などをみますと、印刷が薄かったり、文字が小さかったりで、ちょっと読むのに
往生することになっています。もちろん、メガネは外して読んでいるのですが。)
「二百回忌」というのを検索してましたら、「芭蕉二百回忌」というのがあがっ
てきたりしましので、歴史に残る人に関しては、そんな回忌が行われるのですが、
笙野さんの作品で法要が行われるのは、そんな著名人ではありませんです。
小説の書き出しは、このようになっています。
「 私の父方の家では二百回忌の時、死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇ってきて
法事にでる。それがどうも他の家と違うところらしいが、よその家でも皆そうなの
だと、子供の頃はずっと思い込んでいた。法事の間だけ時間が二百年分混じり
合ってしまい、死者と生者の境がなくなるのだ。無論、それは二百回忌の時だけ
の事で、例えばいくら盛大に執り行ったところで九十回忌位ではそんなにはなら
ない。」
「二百回忌」なんてする家はあるのでしょうかねとは思いますが、初代から数え
て16代目ですとかいうことになれば、初代の法要をするということになれば、二百
回忌というのもありますね。
それにしても、とぼけた話でありますが、「死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇っ
てきて、死者と生者の境がなくなる」というのですから。ありえない話を、いかにも
ありそうな、なさそうな書きっぷりで話はすすんでいくのですが、これが笙野さん
の世界ですね。
8月のお盆の夜に居眠りをして見た夢と現実のお盆行事が混じり合ったような
お話で、これは騙されたが勝ちであります。

