本日もすこしお勉強

 昨晩に引っ張り出してきた長谷川潾二郎さん関係の資料を開いていま

したら、その年譜1931年のところに、次のようにありです。ちなみに潾二郎

さん27歳の時です。

「五月、渡仏。シベリア鉄道で、モスクワを経由しパリへ向かう。この鉄道の

旅の印象を文章にまとめて、函館新聞に『西比利亜風物目送記』を連載

(リン・ジミー名義・九月二日から十日)。パリでは、下町の三階建ての

アパートの一室をアトリエとした。父の友人である内田魯庵の長男・内田

巌もパリに絵画留学中で交遊する。」

 現在図書館から借りています「父・堀内誠一が居る家」の著者堀内花子

さんは、母が内田巌さんの娘さんでありますので、このような形で、本と本が

つながるとは思ってもみないことで。

 それはそれとして、昨日の美術館で展示されていたノートから書き写して

きたものが、これまでの図録に収録されているかなと思いましたら、洲之内

徹さんが潾二郎さんについて「この人はどうしても実物を目の前に据えて

おかないと絵がかけないのである。」と書いていることについてのコメント

がありまして、これは面白いのでありますが、すでに図録に収録されていま

した。なかなか目にする機会はないかもしれませんが、興味のある方は、

「静かな奇譚」の64Pを見てくださいです。

 潾二郎さんが書きつけていたノートは、ガラスケースのなかにはいっている

ので、手にとって好きなページをめくってみることはできないのでありますが、

学芸員さんが、これはというところを見せてくれています。当然のこと、興味深い

のでありますね。

 当方は油絵を描いたりすることはまったくないのでありますが、カンバスが

思うようなものでないとすると、まるで絵が描けないとあって、作品が仕上がら

ないことの理由には、そうしたこともあると記されていました。

「手さわりがちょっと変わっているように思ったが、大丈夫と思った。

しかしエノグが私の思うようにのらないのだ。エノグが筆をはなれてカンバスに

つく時、それは私の精神の空間となる。そのためにはカンバスがそれに役立つ

ように良くなくてはならない。このカンバスは私とは無関係な所にいるらしい。

・・・このカンバスは馬鹿なのだ。」

 手持ちのカンバスがなくなって、同じものと言って買ったものが、どうもエノグ

がのらなくて、描いてはエノグをおとすを繰り返していたら、あっという間に、

何年もたってしまうのだ。とあって、「柚子の木」は10年以上かかったとありま

した。

 図録をみましたら、「柚子の木」にかんしては、10年以上もかかった理由を

「土について」ということで、土の色をうまくだせなくて、それだけで何年も

かかったのだそうです。

 なるほど作品数が少ないはずであります。

 またノートには、自分を戒めるような言葉が書かれていました。

「 感動なしには一筆も描くな

 描きたいものだけを描け

 他人の目を考えるな 自分の目だけを信ぜよ

 他人のために描くな

 自分のためのみに描け

 自己、それは他へ通ずる唯一の道である。 」