長谷川りん二郎展 7

 長谷川潾二郎さんは、「画家としてより先に、探偵小説家、地味井平造として、世に
でることになる。」と図録の解説にはあります。長谷川さんが、探偵小説を雑誌に発表
するに至ったのは、中学校時代に函館で「久生十蘭」と「水谷準」さんと出会ったことが
大きいとあります。こうした面々が、一時代の函館に暮していたわけですから、そういう
ことがあるのですね。
 図録の文章には、「やはり、同時期を同じ函館中学で過ごした亀井勝一郎」の文章が
ひかれています。
「外国の汽船が往来し、アメリカ人やフランス人やイギリス人や中国人の雑居していた
この街の気分を、よくも悪くもあらわしているのは牧逸馬水谷準久生十蘭である。」
江戸時代の末期に、いちはやく外国にむけて開港された函館のなごりを、現代の函館に
求めることはなかなかできませんが、このような人材が輩出した背景にあったのですね。
 探偵小説家としての地味井平造さんについて取材をしたものに、次のものがありです。

 この本の表紙カバーに、著者の鮎川哲也さんは、次のように書いています。
「 一読忘れ難い名作を書きながら、いつしか時代の波にのまれていった作家たち。
かれらの朽ちることのない情熱を掘り起こし、日本の推理小説の青春を再現する。
 ミステリーがまだ探偵小説と呼ばれていた時代に、多くの先人たちが、ただただ
ミステリーを愛するゆえに、書き綴った。こうした人々が日本のミステリーの基盤をきず
いた功績を忘れることはできないが、大半がプロ作家ではなかったために、写真一枚すら
読者の眼にふれる機会がなかった。いまのうちに何とかしたいという思いは、つねづね
わたしの念頭をさらなかった。」
 鮎川さんが雑誌「幻影城」の取材で、地味井平造こと長谷川潾二郎さんに会うのは、
1975年のことです。この時、長谷川さんを前にして、鮎川さんは亡くなった地味井平造
さんのことを聞かせてくださいと、取材を切りだします。