図書館から借りる本は返却まで二週間でありまして、本日に借りると戻すのは
年が改まってからのことになりです。ということは、これから年内に借りるものは
お正月に読むものとなります。
あんまし難しいものは避けるようにして、気楽に読めるものはないかと思って
図書館の棚をみていましたら、こういうのがあったかです。ありがたくこれを借り
ることにしたのですが、この本は、だいぶん前からあったのかな。
一時期はナンシー関さんの文庫本がブックオフにはたくさんありまして、見つけ
ましたら、それを買っていました。おかげでそこそこ手元にたまっているのですが、
亡くなった後、世界文化社から出たものは、チェックできておりませんでした。
今年でたこの本には、没後のものからも取られていますので、当方が目にしてい
ないものも多く収録されてありです。
いつも心にナンシーをでありまして、ほんとこの時代にナンシーがいないことの
さびしさであります。
本日にパラパラとページをめくっていて、目についた見出しは、「『拝まれる存
在』に社会常識を求めるのは言語道断である」というものです。
これが発表されたのは1991年でありますので30年前のものです。「拝まれ
る存在」というのは、お相撲さんのことになります。
書き出しは、次のようになります。
「こないだの琴錦事件でつくづく思ったのであるが、あんなことでお相撲さんに記
者会見させるのは全く間違っている。お相撲さんに筋道立てた事情説明や社会規範
に外れた行動についての反省の弁を求めるなど、おカド違いもいいとこだ。」
別にお相撲さんを馬鹿にしているのではありませんですよ。お相撲さんの有り様
を「非常識とも言える特権を無条件で認めておいて、一方で社会人としての責任を
云々するのは世の中側の身勝手に他ならない」と言っているのですから。
最近のお相撲さんをとりまく世知辛さはどうでありましょう。ナンシー関さんが
事件といっているのは、最近でも同様のことが話題となったりでありますが、こち
らは何場所も出場停止となって、どんと番付を落としてしまうのですが、それって
お相撲さんが「拝まれる存在」で無くなったことに関係しているのでしょうか。