いつも心に 5

 ナンシー関さんのことを知ったのは、いつであったのでしょう。
 当方の知人からは、ナンシー関といえば、「ミュージック・マガジン」の表紙だよ
ねとメールがありました。ナンシーが「ミュージック・マガジン」の表紙を担当して
いたことは、当方の記憶にはまったくありませんでした。
 今回の評伝をみてみましたら、次のようにありました。
「ナンシーの消しゴム版画で最も大きな仕事の一つは、えのきどの紹介に端を発する
ものだった。八八年一月号から三年間、ナンシーは『ミュージック・マガジン」の
表紙に、数多くの外国人ミュージシャンを彫るようになる。」
 八八年から三年間の「ミュージック・マガジン」を手にしたことはあると思います
し、自宅のどこかを探すと何冊か、ナンシーが担当した号が見つかるかもしれません。
当方は、「ニューミュージック・マガジン」時代の付き合いが中心で、「ニュー」の
文字がとれてからは、新しい音楽になじむことができずですこし距離をおいていたか
もしれません。ちなみ「ニュー」の文字が外れたのは八十年とのことです。
この当時の副編集長であった方が、この表紙の依頼はコンペであったと言っています。
「表紙を誰に頼むかは、コンペで決めるんです。イラストレーターの年鑑から三人ぐ
らいを選んできて、同じ絵柄を描いてもらって比べるんです。その年は、ナンシーさ
んも候補に入りました。・・・
 当時の編集長だった中村とうようのアイデアで日本の音楽コントグループである
あきれたぼういず>の集合写真を、ナンシーさんを含めた候補者に描いてもらった。
・・その結果、ナンシーさんに決まりました。それまで表紙を担当したのは、矢吹
申彦さんや河村要助さん、吉田カツさんといった、イラストレーターとして”大物”の
方ばかりで、ナンシーさんのような新人の方に任せたことはありませんでした。」
 この時にでた課題が、<あきれたぼういず>というのが、ナンシーさんにとって
ラッキーであったのかもしれません。なんといって雑誌の表紙を三年間でありますか
ら、それまでとくらべると露出の度合いが違います。そういう意味では、世にでるに
あたっては、課題をだした中村とうようさんの力が大きいといえるでしょう。